The 2010 TIME 100

100人の顔ぶれを見てみると、あらら、こんなに白髪が増えてしまったんだと驚いたのが、Valery Gergiev

最近、日本でも矢継ぎ早に翻訳が出て知られるようになったMichael Pollan

ちょうど『King Corn』を観たところだった。Pollanの議論に触発されて、このトウモロコシをめぐる映画が作られたらしい(映画にも出演している)。

私たちの生活で、なくてはならないもののひとつになってしまっているのが、トウモロコシだ。食用だけでなく、飼料用、甘味料として大量に使われている。

遺伝子組換え技術と政府の補助金によって、大量に生産されるトウモロコシ。実際、日本で一番消費されている穀物はトウモロコシである。

それらが私たちの体内に入っているわけで、なんとも不思議な気分になる。

リストで、おやっと一瞬思ったのは、Amartya Sen

いただきもの

金子 晋右『戦前期アジア間競争と日本の工業化―インド・中国・日本の蚕糸絹業』

昔聞いた印象では、「番手」の相違が市場の相違となり、日本の製品と中国などの製品の「棲み分け」が起こることから派生する経済史的問題を扱った論考。

同時期に大学院に入った人が、既に2冊目の単著を出していることに、少々焦る。。。

動物の命は人間より軽いのか - 世界最先端の動物保護思想

功利主義理解で首をかしげる部分もあるけれども、生命、環境、食など、さまざまなものが密接に関連していることを改めて考えさせてくれる本だろうか。

伐採のために森の動物が追われ、食肉にされて数を減らして行き、人間が住みかを広げていくことで行き場を失った動物が畑に入ったりすることで害獣とされ「駆除」される。

このように、現代において、住宅や調度品、楽器などに木材を使うことには、さまざまな問題が絡まっているし、人間の活動がほかの生命に対して大きな負荷となっていることなどは、これまでにも多くの論者が指摘してきた。

功利主義的な考えだが、動物の命が人間の命と同等だとはまでは考えない。けれども、動物という生き物さえも、使い捨てしまう現代のあり方には大いに疑問が残る。

いただきもの

渡辺浩『日本政治思想史―十七〜十九世紀』

この先生の見事な話し方から書き方まで、大きな影響を受けつつも、自分の話し方や書いたものはそうはならないのが、なんとも残念次第だが、ページをめくると、江戸時代の日本の情景が浮かんでくる筆致には、いつもながら感銘を受けるし、「人と著作」といったタイトルには、昔もぐりこんで聴いた講義のことがまざまざとよみがえる。

今月はもろもろ読まなくてはいけないものが溜まっているが、これはどうも読み始めたら止まらないのが困りものである。

マローンの合唱団

先日放送があった地球ドラマチックで、ギャレス・マローンが新たに作った合唱団のドキュメンタリーの放送を見た。

2010年 3月 4日(木) 19:00〜19:40
『町中みんなで合唱団! 〜大聖堂への道〜』

これは、NHKのオンデマンドでまだ見れる。元は「The choir:Unsung Town」というタイトルの番組のようで、4つに分割して放送されている。

次回は、最後で、2010年 3月11日(木) 19:00〜19:40
『町中みんなで合唱団! 〜最後の大舞台〜』

サウスオキシーというロンドン北部の小さな町。そこは人種的偏見にさらされた人々や労働者が多く住む地域らしい。マローンの企図は、そうした地域の人々に合唱を通じて、自信とソーシャル・キャピタルを提供しようというものだ。

朝から晩まで街中を動き回り、レッスンに奮闘する彼の努力も実り、番組を見る限りは、非常にうまくいったように見える(実際は、いろいろ問題もあっただろうけれども)。

昔、皆川達夫さんが言っていたことだが、合唱指揮者とはかくあるべしという模範のような人物である。

娯楽の提供によって、街中に、ある種の共同感情が芽生えるというのは、すばらしいことだ。

ただそれが可能になった経済的な環境も無視できない。娯楽が少ないところでは、合唱を通じて、人々が繋がり得るが、少し豊かになった地域では、こうした町ぐるみのことがどこまで成功するかは微妙かもしれないからだ。

しかし、分断された社会につながりを提供しようという、このような試みは、とても意義ある。

フィギュア・スケート

オリンピックで、注目を集めていたフィギュア・スケートを観た。

なんというか、昔に比べてずいぶんとスポーツになってしまったなというか、機械的になったなぁという印象を受ける。

キムヨナ選手にしても、高得点の選手は高得点の技ができるだけで、芸術性や優雅さといったものがない。

むろん、彼女らの演技は時折瞠目に値するものがあるが、優雅さを感じない大きな理由は腕の動きだろうか。

なんというか、筋肉トレーニングでもしているのかなと思うほどのぎこちなさを感じるし、指の先まで、神経を行き届かせていない。その点、点数は低くてもロシアの選手はバレエの伝統だろうか、秀でていた。

注目の浅田選手は、数年前に見たときよりも、表現力が格段に違っていて上手になったと思う。それでも彼女にも優雅さは感じられない。

時代の移り変わりなのか、フィギュアにはスピードとは違った優雅さがあってこそだと思うのだが。

降りてゆく生き方

先日、降りてゆく生き方」のプレ上映会に行った。場所は池袋のたまにはTsukiでも眺めましょ

この映画を知ったのも、このお店に来ていたお客さんからで、興味深いと思ったのは、映画は基本的に自主上映であるということ。

商業ベースに乗せたのでは、ただ見て終わりになってしまう。そうではなく、映画が一つの機縁になるようなものとして使えないかという発想だ。

自主上映が決まれば、プレ上映会を何度も開き、視聴者が互いに話をして、それぞれの考えや感想から何かを掴み、繋がり、次へと繋げてゆく。

先日の折も「繋がり」が一つのキーワードだった。これは、公共的なるものの構築とも言えるのではないか。

分断された社会の中で、公共的なるものを作り上げてゆくものとして映画を使うという発想は、その意味で、興味深い。

映画を作る際にも、多くのボランティアが関わり、出演者は2千人近くにのぼるという。むろん出演者はオーディションであり、これも単なるオーディションではなく、履歴書などの提出のない、自己表現の場としてのオーディションだったらしい。

作る現場から、公共的なるものを目指そうとした映画は、それを公開する段においても、やはり人々につながりをもたらそうということから、自主上映、そしてプレ上映会という形で、社会的な問題意識を喚起する。

デモや、サークル、勉強会、シンポジウムといった旧来の媒体以上に、視覚と聴覚に訴える物語性のある媒体として映画は格好のものだ。しかも、それは単に観て勉強になったというものではなく、そこに何がしかの共同性というか公共性を芽生えさせることに繋がっている。

今年はこうした社会的な運動により積極的にコミットしようと思っているが、なぜか妙に仕事に追われているのも事実で、なかなか思うようにはいかない。。。