敗者への共感

昨日は横浜で、「頼政」をテーマにした平曲、狂言、能を観る。

義仲の息子であった彼と、高倉宮とで平家討伐をたくらむが、兵を挙げたものの宇治平等院の戦いで敗れ、命を落とす。

能のテーマには、このように無念の情を残したまま亡くなった人物が現われれて物語るということが結構ある。

ちょうど終戦=敗戦をめぐる時期でもあるので、はたっと思ったのは、無念な思いで亡くなった者へのある種の共感めいたものが、結構昔から、この日本社会では受容されてきたのではないかという点だ。

頼政などは、平家を討伐せんと自分で兵を挙げ、失敗しただけで、確かに父親と平家との因縁があるから、その気持ちも分かるけれども、どこか素直に、その無念さを共有できないところがある。

勝敗は兵家の常という醒めた認識からは程遠く、義もなく、ただ人間的な情の部分でのみ、血気盛んに動いたというだけのように思えるからだ。

結局、なぜ戦を起こしたのか、どれだけの惨禍を招いたのかということへの反省は、こうした物語からはすべて脱落している。

つまり単に無念の死という一般的な現象へと横すべりしてしまって、その個別の意味が抜き取られているようにも思う。

これが、日本が関わった戦争への一般的な反省の態度にも大きく影響しているのではないかと感じた番組だった。