いろいろなお茶。。。

昨晩は久しぶりにスコッチを飲む。ダルウィニーの25年物で60%ほどのアルコール。瓶詰めは1975年。スコッチは30年ほどすると、熟成がとまり、あとは少しずつ揮発してしまうから、樽に入れたままでは、どんどん中身が少なくなってしまうとは初めて知った。

合わせて飲んだのは、アイラ島シングルモルトで、28年物。アルコール度数は同じくらいだが、ピートの違いか、アイラらしい香りがする。

両方とも最初は強烈な香りというかアルコールがツンと鼻をつくけれども、数十分すると収まって、味もまろやかになる。

バーにおいてあるスコッチの本を読むと、1980年代になくなった蒸留所が多いことに気づく。インヴァネスなどはすべて無くなってしまっているが、それはやはり原料のネス湖の水が汚れてしまったからでもあるのだろうか。。。

さて、某所で箱書の木目について、ひとつ教えられた。箱書きをする際には木目に逆らわずにと思っていたら、存外そうでもないらしい(その理由はよく分からないが)。

まぁ牧野古陶堂でのエピソードはあの世界の決まり事などをよく分かっていない御仁のひどい書付であったわけだが、合理的とされるお茶の世界でもさまざまなやり方があって、これが決定的なやり方というのは結局のところ存在しない。

お茶の世界で、よく御点前は合理的だなどという話を聞くけれども、いったいどのような意味で使われているのかはまったく判然としない。
(ちょうど講義でヴェーバーを読んでいることもあって、こうした合理的という言葉の使い方は100年以上もまるで進歩していないようだ。まさに「誤解」こそが歴史を動かしてきたとも言えるだろう)。

柳父章氏の言葉を借りれば、言葉のカセット効果ということになるであろう翻訳語にまつわる、内容は曖昧模糊としながらも便利で使ってしまう特質のゆえだろうか。

ともあれ、上のような箱書のあり方などをとっても、注意深い観察力を持っていないと意外に見落としてしまうし、なんと言ってもそれは一応は師弟の関係を残している「伝統文化」で「まじめに」「稽古」に励んでいる者だからこそ気づくことだろう。

この点はまさに師弟関係というものが残っているからこそ可能になるような世界で、そうした世界は今後ますます希薄になるような気がするから貴重なことである。

お茶の世界には町人や武家、僧院、書院などでさまざまな流派があり、しかも流派内のレヴェルでも様々な考え方の相違がある。同じ流派でも家元の代が異なれば随分と異なった教えになることもあるし、中央(京都、最近では東京もだろうか)と地方でも異なる。或る流派で正統とされていることが別の流派では異端とされることもある。

かくして「近代の宿命」かどうか分からないが、過去との生き生きとした実感が損なわれているから、勢いそこには過去の決まり事をひたすら遵守しようとする態度と、個人の好みですべてを取り仕切ろうとする態度との二極化の傾向が生じる。

つまり文化の形=フォルムが失われた現代で、それを取り戻そうとする情熱と、そうしたフォルムには行き着けないという諦念とが入り混じる。

そこに「伝統」とは過去の遺産から主体的に選択して未来に活かすものであるという丸山的な主張(非連続の連続)が第3の道として立ち現われるのだろうけれども、日本(だけではないが)はまだまだ「博物館的伝統」、「歴史的画期に着目」して定義される伝統、歴史的に支配的な潮流として定義される伝統、ウチとソトという地理的空間に依拠した「植物主義的伝統」といったものに縛られているようだ。