ワインづくりの思想〜銘醸地神話を超えて

相変わらず着眼点が素晴らしい麻井宇助氏の著書『ワインづくりの思想〜銘醸地神話を超えて』(中公新書)である。

随分と前に出だしだけ読んだまま、積読になっていたが、最近寝しなに読んでいる。21世紀におけるワイン作りの方向性を展望する上で、20世紀におけるワイン作りの状況をおさえ、そこから、ワインのつくり手がもつべき哲学・思想の重要性を説く。

ワインの発酵容器は開放の木桶、コンクリート槽、エナメル塗装した鉄タンク、ステンレス・スティール製の自動温度制御装置付タンクと変遷した。

醸造技術は自然の影響をいかに阻止するかによってもたらされ、「それは微生物汚染と酸化を悪と見る思想の上に構築された。そして、粗放な醸造を当たりまえとしていたところでは、確かにワインは面目も一新した。しかし、失ったものも、また、あったのである」(112頁)。

1980年代に白ワインの醸造法として、スキン・コンタクト(搾汁前の果皮浸漬)、ハイパー・オキシデーション(酸化促進による品質改良法)が出てきたのは、「果汁の組成が旧来の好ましい条件から逸脱してしまった反省なのである。つまり、これらの新しいノウ・ハウは、醸造機械の進歩が酒質に及ぼす変化を修正するものであって、革新的な技術ではない。

その一方、自然発酵に回帰しようとする技術者の思想は、微生物汚染と戦ってきたパストゥール以後の一世紀あまりを、純粋培養酵母一辺倒の、いわばそのほかの微生物を全否定する論理から、複雑な微生物相のもとに味わいの深さを求める新しい秩序の追究へと大転換しようとしている。これは昔へかえることではなく、革新である」(113頁)

本書の内容はこれに尽きているように思うが、しかしワインが文明化=科学技術を応用して自然の影響を出来るだけ抑えた形でワインをつくることで全世界的に伝播したことと相即的に、アメリカや日本をはじめとするワイン後発国では、1970年代に甘味ぶどう酒とテーブルワインの比率が逆転するというグローバルな現象が起きた。

これは工業的な工程管理の発想が持ち込まれたことと大いに関わる。「亜硫酸を添加する思想は、常に安定した品質のワインを生産しようとする意図の上にあって、より良いワインを作り上げようとする意志のもとにあるのではない。しかし、20世紀はこうした思想が技術の進歩を大いにリードした時代であった」(301頁)

ワインは最も容易にアルコール発酵が始まる液体であるにもかかわらず、ワイン作りから自然発酵が影を潜めたのは、醸造技術の専門教育を受けたつくり手がワイナリーの現場に増えるにつれ、自然発酵を粗野で時代遅れと見たとともに、そもそも自然発酵が起きなくしたことだと言う。

ブドウを破砕する作業に合わせて、必要以上に亜硫酸を添加するマニュアルが定着したためらしい。「そこへ亜硫酸耐性のある純粋培養酵母を接種するノウ・ハウ、つまり自然界から選抜した優秀な菌株によって高品質の製品を作り出すようになったビールや清酒の技術が応用された」(308頁)。

こうした技術が「自然発酵からの進歩」と信じられた時代があったが、しかしそれでは凄いワインはできない。

凄いワインとは、ブドウの品種が決めるのでも、醸造技術が決めるのでもなく、ましてやテロワール(大地)やクリマ(気象)が決めるのでもない。「いかに技術を用いるか、その判断のできる『人』がいなければならない。そして、その『人』には、自分の拠って立つ『テロワール』に、いかなる『品種』がふさわしいか洞察する力が求められる」(318頁)。

「つくり手として、偉大なワインとはいかなるものかを知っている。そして自分もまたそれを目指す。その高い志が、ワインの出自となる」

「毎日畑へ出る必要があるのかと合理主義者はいうであろう。それは正しい。だが、科学的な根拠をもとに策定された栽培管理のマニュアルを信奉する人たちと、凄いワインをつくろうと献身する人たちの、畑に立つ姿は決定的に違う。前者は、いまあるテロワールを肯定し、後者は決して肯定しない。

 ワインづくりのフィロソフィーとは、言葉にあらわすより、こういう場面できわだつものだ」(273頁)

「『.....ブドウ畑へ出て一年中観察していると異変がわかる。いつも大きな変調になる前に対処する。すべては、自分の舌による判断なんだ』」(276頁)。

畢竟ワインづくりの根本には「人」がいなければならないということに尽きる。当然といえば当然のことかもしれないが、確固たる信念をもって技術的にはアナクロと見られようと、凄いワインに近づこうと努力し、自然に相対するつくり手が理想をもっていなければ、凄いワインはできない。

さらに「ワインをどうみるかは、個々のワインを批評することではない。畢竟、ワインの凄さを見抜くかどうかに尽きる。表現することではない。深く感銘するか否かを自らに問うだけである。.....。素直に、おいしいか、おいしいとは思わないか、自分の気持ちに従えばいい。そのうちに凄く感動するワインと出会うことがある。「どうみるか」は、ここから始まるのである。」(320頁)と本書は締めくくられる。

通説や近年の銘醸地というものを絶対化せず、ひたすら人と相対し見聞し考察した著者の見解には大いに説得力がある。