食に思う

美味しいものを食べる時、それが生命溢れるものだということを感じる。美味しさを感じるのは各人各様に思われるけれども、例えば今が旬の椎茸。取立ての瑞々しい椎茸と、都会で見かける鮮度の落ちた椎茸とを比較してみるとよく分かる。

取立ての椎茸には生命の躍動を感じる。それは土との繋がりを感じるからで、食養で言う身土不二である。美味しさとは大地への繋がりが感じられるかどうかがあり、また大地への感謝、作ってくれた人への感謝があり、その後に味そのものを云々するということがあるように思う。

一方、東京のスーパーで売られている椎茸には生命の躍動は感じられない。まるで生命を失い干からびているようだ。土と離れてから随分と時間が経っているので、そのこと自体、野菜には申し訳なく思う。

また一見粗野に見えるかもしれない田舎料理(!?)は食物の全体をそのまま戴くという点でこれまた食養で言う一物全体食である。

一物全体食は糧を与えてくれるものへの感謝の表われでもある。精進料理は基本的にその精神に基づく。昨今流行の言葉で言えば「勿体無い」か(ただこの言葉には資源をとことんまで使い切るという微妙なニュアンスも含まれているように思われる)。

上田での窯焚きで、窯焚き師の方々と共にした食には、このような新鮮な驚きと深い味わいとを感じた。

もちろん、山に囲まれた青木村の空気のよさが食べ物を美味しく感じさせてくれたことだろうし、窯焚きで薪を運んだり、くべたりしたこともそうだろう。

現代において「自然」のままに生きることは不可能事に近いが、頭の片隅においておきたいことである......。