パッション

遅ればせながら、メル・ギブソンの『パッション』を見る。ルカによる福音書に即して、マルコなどから台詞を借用しつつ、イエス(イェホショア!? ヨシャア。原音表記は難しい)の死の直前、受難を主題とした映画で、映像はとても美しい。。。

しかし、である。なんとなく予想はしていたが、なぜイエスを題材としたのか理解できない。巷間言われるところでは、あの映画はメル・ギブソン信仰告白とのことだ(興行的にも成功したようだが、キリスト教原理主義アメリカで広まっていることの証左のようだ)。

あの映画で語られたのは、弟子ユダの裏切りとユダヤ教支配層のごり押しによって凄惨な仕打ちを受け、十字架に磔られるというだけの話で、そこにはなぜイエスが磔にされたのかという根源的な問いが一切存在していない。それゆえに聖痕をもつイエスが復活するというお目出度い話で最後が締めくくられる。

生前のイエスが、ユダヤ教支配層を徹底的に批判し、彼らに抑圧されていた多数の民衆のために行動したことが、ローマ帝国をも含む政治的宗教的支配に対する根源的な問いとなっていたがためにイエスは十字架に架けられたとするならば、そうした過程を抜きにして、ユダの裏切りから死ぬまでの物語を紡ぐことにどれだけの意味があるのか。

近年の聖書学の成果を或る程度取り入れてはいるが、これは美しい映像で織り成された出来の悪いイエス物語である。せっかく台詞にアラム語を採用しながら、冷静で穏やかな人物という旧来のイエス像を描くだけでは単なる衒学趣味に過ぎない。

キリスト教の素晴らしさに共感する故に、映画のレベルの低さに非常に残念な思いがする。