山芋のこと、都市化のこと

昨日、お好み焼きに入れる山芋を大和芋と書いた。先日の懐石料理講習会の際にも指摘されたが、関東で出回る大和芋は、銀杏芋と言うらしい。

こちらのHPによると、「現在、日本で採れる山芋は、大きく分けると、長いも、大薯(だいしょ)、自然薯(じねんじょ)の3種類で、農林水産省の統計種類でも、この3種類を山芋と呼んでいます」。「芋のかたちから、長形のものを長芋(ながいも)、平たいものを銀杏芋(いちょういも)、かたまりになったものを捏芋(つくねいも)」と呼び、銀杏芋と捏芋(つくねいも。関西)を大和芋と総称するらしい。

山芋ひとつとっても、多様な世界だが、都会ではそれらを一緒くたにしてしまうことが多い。多様な事柄を一様に見てしまうことは、それだけ世界を貧しいものと見てしまうことに繋がる。面倒くさがらずに多様性を見つめたいと思う。

ところで、自然科学的世界観では、植物動物それぞれの個別性を確保できない。山芋には様々な種類があるが、或る銀杏芋と別の銀杏芋を区別する手立てはない。あくまで種や属、科目といったレベルでしか区別できないのである。もちろん人間も例外ではない。

しかし人間は、あの人とこの人とを認識し、区別し、尊重する。場合によってはペットや植物も区別し尊重する。

それは無味乾燥な世界を豊饒なものとする働きであろうが、都市化はまさにそうした豊穣な世界を無味乾燥なものへと仕向ける。都市の中で生きる人間は無味乾燥な世界を受容すると同時に豊かな世界を想起する存在でもある。例えば盆栽は「縮み」の志向であるだけでなく、そうした都市化の趨勢への抵抗とも読み取れるのではないか。世界は常に馴化と抵抗の緊張を孕んでいる...。