security

安全という言葉。『ビジネス倫理の論じ方』で改めて取り上げたわけだが、昨今の人間の安全保障を含め、「左派」からは胡散臭い眼で見られがちな概念ではある(自由を制限して、監視社会化を促進させるとか、もろもろ)。

しかし上の本では明示的に語らなかったが、安全というのは、人間の福祉に関係する問題で、その点で、たとえば、食の安全といった場合に、日本ではひたすら食物の安全ばかりが取りざたされ、生産者の安全にはほとんど言及されない(むろん生産者の側の農薬や搾取やもろもろの問題を指摘する声は無数にあるけれども、それが一般のメディアに出てくることは少ない)。

その点、ベンサム的な広い意味での安全は、生産者を含めた、食に従事する人びとすべての安全を問題にするという意味で、重要な概念的問い直しでもある。

その関連で気になるのは、少々強引な展開だが、監視というか規律の問題だろうか。

いわゆる消極的自由一本やりの「リベラル」な態度の問題は、ある種の性善説に基づいている(むろん性善説とリベラルな思想の結びつきという話自体は、トンデモだが)。

昼よりも夜の方が犯罪が起き易いのは、陽光による周囲からの監視が少なくなるからだ。また隣組的な監視なり、地域社会の「監視」なりが減少して、それを学校や警察、行政に肩代わりさせようというのが昨今の流れである。

従来型の戦後民主主義系の市民による権力批判型のリベラルの問題点は、第1に一定の教養や良識を前提にした上でリベラルな価値について語るところであり、第2にそのことについて無意識であることであり、かつ現今の社会問題について、意外に無頓着なことであろうか。

北朝鮮が攻めてきたらどうするとか、実際に隣人が犯罪を起こしたらどうするとか、(架空の)「現実の脅威」なるもので脅す右派は置いて、これまでに、人びとを特定の行為選択に結び付けてきたコードや権力が無力化している中で、新たな権力(行為の秩序化作用)の様式をまじめに考えないといけない状況だが、自由にすれば、市場の如く、うまく調整されるというのは、あまりにナイーヴだ。

むろん、だからといって、あまりに介入的な要素が濃くなるのも問題だ。

そこで、ベンサムの間接立法ならぬ、行為選択の秩序化を促すアーキテクチャーが重要になるのだろう。

ありがたいコメントを読みながら、ビールを傾けつつ、そんなことを思う今宵。。。