動物の福祉と畜産

「大学は美味しい!!+学市学座」の6月16日には、「安心な食卓は健全な飼い方から-アニマルウェルフェア畜産を考える-」(東北大学 大学院農学研究科・教授・佐藤 衆介)というものが開かれる。

「心身ともに健康な家畜からの乳・肉・卵は、安心な食卓の基本です。心と体の健康に配慮する飼い方をアニマルウェルフェアと言い、世界の畜産は、その方向を向き始めています。その動きと東北大学の取り組みを紹介します。」

動物福祉の考え方については、以下が参考になる。長いけれども引用しよう。

 まず動物福祉という用語を説明する。そのためには、対置される理念としての「動物の生きる権利(アニマル・ライト)」から解説するとわかりやすいだろう。ヒト以外の動物にも、ヒトと同様の生存権を認めようという考え方である。ヒトの生命を奪ってはならないのと同様に、ヒト以外の動物の生命も奪ってはならないという主張である。いわゆる「菜食主義(ベジタリアン)」という理念の背景にも同様の主張がある。しかし「動物の生きる権利」を主張する立場は、食事だけではなく、ヒト以外の生命をヒトのために利用することを一般に拒否する。牛や豚を食べないだけではない。たとえば医学実験にマウスやヒヨコを使うのも拒否する。もちろん、どのような主張にも色の濃淡はあるから、どこまでがという厳密な線は引けない。しかし、「動物の生きる権利」と一般に呼ぶ理念は、ヒト以外の動物に生存権を認め、殺生を禁ずる立場だと言える。それに対して「動物福祉」という理念は、究極のところで、ヒトがヒト以外の動物の生命を犠牲にすることを認めている。そうせざるをえない2つの理由がある。第1に、ヒト以外の動物をヒトが利用するのはヒトの本性だからである。草を草食獣が食べ、その草食獣を肉食獣が食べる。自然界にはそうした「食物連鎖」がある。ヒトもその連鎖の一環である。ヒトは霊長類の一種であり、中でもいろいろな食物品目を食べる雑食化した種として進化してきた。本来、果実も葉も肉も昆虫も食べるように体のしくみができている。第2に、そもそもヒト以外の生命を犠牲にせずにヒトは生きていけない。同じ生命なのに、なぜ植物は利用してよくて動物はいけないのか。同じ動物でも、なぜ脊椎動物だけが生存権の対象になるのか。「動物の生きる権利」は一見してわかりやすい主張だが、こうして突き詰めて考えてみると、主張そのものの論理に整合性がない。「動物の生きる権利」が主張したいことを、実際のヒトの進化や本性に照らして合理的に再解釈してみよう。妥当な理念は、「ヒトはヒト以外の動物の生命を、自らの暮らしのために利用するのはやむをえないが、むやみに奪ってはならない」ということだ。さらに、「ヒト以外の動物の生命を尊重するだけでなく、生きている暮らしそのものを尊重する」、それが動物福祉という理念である。

動物の権利という言い方には賛同しないが、しかし植物はよくて動物はだめで、脊椎動物はだめで無脊椎動物はいいという理由は簡単だ。

快苦感受能力があるかどうかである。その一方で、身体的構造から人間は雑食だから、何を食べてもよく、生命を奪うのはやむをえないが「むやみに奪ってはならない」というのは、どうも人間のエゴでしかない。

福祉と殺戮が同居するというのは、なんともおぞましい世界のように思えるが、動物の福祉を主張する人たちはそのあたり、なんとも思わないらしい。

人間もこれまで殺戮を繰り返してきた。要はむやみに殺さないことである。このように人間に置き換えればいかにおかしことであるか、至って簡単に分かるではないか。。。あれ、少し酔っ払っているかな。。。