もろもろ

さて、東京都安全・安心まちづくり条例というものがある。おそらく今日都議会を通過してしまったことと思う。しかし都議でさえ、どんな実質的な効果があるのかよくわからないと言う。確かに昨今の「安全・安心」というフレーズはアプリオリに正しいものとして通用してしまっているから、そうした言葉をちりばめたものに対して正面きって批判はしにくいかもしれない。

しかし、そもそも民主主義の大前提は国家は信用できないということにある。ヴェーバーアメリカの民主主義について、当時聞き知った話を吐露しているところによれば、猟官制がよいのは、ろくでもない者に役人をさせておいた方が市民をバカにしないでよいということだった。

そこには、人間は過ちうるから、何か健全な、或いは慈善的な統治者を前提することは、そもそもできないということだった。

子ミルにならって言えば、社会が多数の専制を許すような一元的な社会になることの危険性を考えれば、自由な発言・表現の自由は、自由な社会にとって不可欠のはずだ。

ところが、それが東京都安全・安心まちづくり条例によって危機に瀕している。宮下公園のナイキ化にしても、大きな問題だが、たとえばこちらの記事では、問題が行政かホームレスかという妙な対立へと矮小化されている。

公園は確かに公共的な空間だが、現今の状況からすれば、住むのに困る人がいるなら、公園など使っても問題ないではないか。

というわけで、こんなデモに参加してくる。もちろんもろもろ発言している内容に共感しているわけではないが、ここでそれなりに反対の意思表明をしておくことは重要だろう。

さて、「有識者」なる大層な方々が懇談会で、検討したのはこのような報告書。ま、幼稚園児の作文ですね。

しかもあまりにひどい恣意的な統計の使い方。例えば、犯罪の認知件数が増加しているという指摘がある。なんというか、まぁ。

しかも懇談会の出した報告書では、それに個性的な生き方と自分勝手な生き方は違うらしい。では、どのように違うのか、知りたいものだ。

また昨今は警察の能力が社会の動きに対応できず、認知件数に対して検挙件数は下がる一方である。

デモにもよく映っているけれども、公安が組織防衛のために、あらゆるデモに出没している。結局のところ、あらゆる組織は組織防衛のために行動せざるを得ないようだ。

昨晩は、246の住人の方から、貴重な話を伺った。公共空間が根こそぎ、資本や行政に翻弄されることへの抗議の意思表示である。