排除と抵抗

「炊き出しに路上生活者が長い列 苦情で中止、苦渋の決断」

生活にゆとりをということに反対する人はいないだろうが、そうしたことが公的な場面でも発揮されていかないところが現代の日本のというか、一般的な社会での悲しいところかもしれない。

この間の「恐慌」の影響で炊き出しに集まる人数が増大しているわけだが、近隣住民の苦情がそうした炊き出しを中止させることになっているという(もちろんそれだけではないが)。

人が集まれば、当然モノも出るだろう。ゴミを捨てていく心無い人もいるかもしれない。しかし大量のゴミとか産廃でどうにもならない話ならわかるが、ゴミが落ちているのであれば、それが自分が出したものでなくても、捨てればよいだけの話だ。

公的な空間に関わることを「迷惑」と感じるメンタリティーには、狭隘な精神しか感じないが、そうした一部の苦情が公的な活動を失速させているのならば、問題だし、そうした苦情に乗っかって行政が排除に動き出すのも問題だ。

こうした行政の問題が集約しているのが、例の「東京都安全・安心まちづくり条例」。もろもろの反対運動なりは盛り上がったのだが、都議会を通過してしまいそうである。

お金を払わなければ、或いは、行政などのお墨付きがなければ、自己の「所有」でない空間を利用することがますますできなくなってきている。

その制約が安全であったり、迷惑であったりするわけだが、都市が、いよいよ公的な空間を消失させ、商業化された空間だけが残存していくことで虚無化して、自由が逼迫することに対して、どのような「抵抗」が可能だろうか。

この問題については、14日の朝日新聞「異見新言」で、G氏が「『排除』と戦う芸術家たち」という文章を書いていて、的確な捉え方をしている(同日の新聞には、中谷氏の「転向」問題をめぐっても興味深い記事が載っている)。

政治性という言葉のイメージはやや日常語とは離れるので、社会性と言っていいだろうが、そうした批判精神の現われとしての芸術が路上から生まれつつある。

「いったい誰が、芸術とは永田町であり、芸術とは美術館だと決めたのだろう」

政治や芸術がどこか一定の空間で行なわれているというイメージを変えること、そしてそのために、街へ出ること。これは重要な提言である。

政治に関わる行為が日常生活の当たり前の活動の一つにならなければ、民主主義は有効に機能しないと、かつて丸山眞男は言っていたことが想起される。