予定説。。。

宗教改革期、予定説が流行した。

予定説で特徴付けられる宗派に改革派がある。脱魔術化の究極とも言える、この教理の凄まじさを改めて感じるのが、救済は遠い過去において、すでに決定されているという点だ。

ふつう、宗教は、入信すればとか、善い行ないをすれば、救われると説く。

ところが、改革派の教会で説かれる予定説では、救済されているかどうかなんて、昔に神様が決められましたということで、なんの救いにもならない。

『プロ倫』の叙述では、牧師も、聖礼典も、教会も、神さえも救ってくれないという、なんとも峻厳な教えだ。

要は神のやることに、人間の側が、いろいろ言っても無駄である。それは、人間に生まれずに、動物に生まれたことを恨んでいるのと同じであるというわけだ。

人間のために神があるのではなく、神のために人間があるのだという思想が、一般信徒に与えた「かつてないほどの内面的孤独化」の影響はとてつもなく大きい(たとえば、被造物神化の拒否とか、悲しげな個人主義とか)。。。

さて、妙な連想だが、この人間と神との隔絶。とりわけ、人間の尺度で神の行為を裁いてはならないという話から連想したことがある。

それは、宣長である。『古事記』には、とても信じられないことが書いてあるが、信じられないのは、人間の尺度から見るからであって、あれはまさに神の世界のことだからこそ、あのように奇妙なのだ、だから、逆に信じられないようなことが書いてあることは、神の世界のこととして逆に信用できるのだといった話だ。

彼我の違いに思いをめぐらす宵。。。