ポーコック

土曜日の研究会では『思想』のポーコック特集合評会。

コメント役のK先生も指摘されていたが、ポーコックがインタヴューで語っていることが興味深かった。

「スキナー、タックともホッブズに目がいっている。なんといっても、彼が一番だ。スキナーもタックも政治哲学志向で国家概念に関心がいってしまっている。彼らにとって国家こそが近代を決定している。僕は賛成しない。僕にとって決定的なのは、商業社会という観念が、1690年代という17世紀の終わりに忽然と登場したこと、それがイングランドで、その後30年は勢いを失わなかったこと、この事こそが『マキャヴェリアン・モーメント』の第3部をひっぱり、『徳、商業、歴史』(1985年)でとりあげた大問題だ。これこそ、ハリントンが提起し、ヒュームやスミスが120年後に解き明かしたことだ。それは国家や哲学の問題ではない。それは社会の問題だ。これが僕の得た一つの歴史の到達点なのだ」(13頁)。

この指摘は重要だ。ただ『オシアナ』(1656年)と『国富論』(1776年)の問題と「商業社会」の問題とが交錯しているが。。。

ともあれ、ケンブリッジ・メソッドを「共有」するスキナーなどと異なって、ポーコックが言語使用の背後にある「コンテクスト」(K先生は「言語的パラダイム」とも仰っていたが)に着目する理由が腑に落ちた。

そうした着眼点からすると、個々の思想家へのウェイトは軽くなるだろうし、コンテクストといっても、当該社会での共通了解ともなっている言語使用に関するパラダイムを明らかにしていこうという問題意識が、上のような商業社会という枠で捉えられているのならば、至極当然のことでもあろう。

ただH先生が指摘していたが、ポーコックの仕事はあくまで歴史であり、しかも非常に個人的なものであるということ、またS先生の紹介だが、英文がひどく、ネイティヴでも内容を理解するのが困難という話もあった。

道理で翻訳を読んだときのよく分からないという印象は、アプローチの独特さもさることながら、原文がよくないということからでもあったようだ。

I氏の論文については、多様な啓蒙の在り方という話が興味深かった。相変わらず刺激的な論文を書いている。見習わねば。。。

ともあれ、ポーコックは案外面白いのだなと感じられたのは収穫。