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中日新聞の連載「結いのこころ」売り手よし 買い手よし 世間よし 〜総集編〜<下>の中に、「伊勢湾台風で被災者支援…めいぎん魂、今も」という話がある。

長くなるが、引用すると、

同銀行の名古屋市内での貸出金シェアは7%程度だが、同市港区に限っては30%あり、大手銀行と対等以上の業績を挙げている。

 なぜか。決まり文句はこう続く。「伊勢湾台風のときになぁ…」。1959(昭和34)年9月26日、港区など南部の4店はすべて床上まで浸水。港支店に勤めていた後藤勝彦(73)は「それでも(台風の)翌朝、首まで水に漬かって、支店へ歩いた。いかだを作ったり、泳いで来たり、皆、来てましたよ」と振り返る。

 創業者で社長の加藤廣治(こうじ)(1908−87)も自らボートをこぎ、着くなり言った。「カネが足りなかったら日銀で借りてくる。被災者への支払いや融資は思い切ってやれ」。港支店は台風の翌々日から営業を再開。バスを仮の店舗に、長靴でタオルを首に巻いた行員たちが木机に陣取った。

 「通帳が流れ、金を下ろせん」「何とか機械を修理したい」。書類が水に流れ、経営実態が把握できない企業も多かったが、行員の見知った顔なら、通帳や印鑑が無くても支払いをした。台風が原因の不渡り手形は処分を猶予した。

 大手銀行の融資が大企業が中心なのに対し、名銀の顧客は油まみれで一本一本ネジをつくるような町工場ばかり。「あのころは営業の人が日掛けで客を回って集金していた。毎日顔を合わせて経営相談に乗ったりしてるから、通帳の残高まで100人単位で頭に入っていた」。結局、台風での融資は1件の焦げ付きも出さなかった。

 後藤は台風から21年後、支店長として港支店に戻った際、よく声をかけられた。「あのときはお世話になった」。代が変わっても「親父(おやじ)に聞かされた」と、台風時の恩を語る社長たちが優良顧客になっていた。

 加藤の長男で現会長の千麿(かずまろ)(70)は言う。「親父は困ってる人をほっとけなかっただけ」。高校生のころ、自宅から見えた遠くの火事に、つい「きれいだなぁ」と漏らした時「焼け出された人の気持ちを考えろっ」。烈火のごとく怒った父の顔がまぶたの裏に焼きついている。

こうした「美談」が単に美談で終わらずにそのまま根を下ろしていることはすばらしい。

ただ一方で、ビジネスの世界では、「危機」をビジネスチャンスにするようなしたたかさがすぐに生まれて、元にあった志なり精神なりが失われるのも確かだ。

成功例が出ると、ビジネスチャンスを求めて企業が競争を始める。ビジネスにどこか胡散臭さを感じてしまうのも仕方がないことではある。

昨今、大企業が、人が大事だとか何とか喧伝するのに、その実態にあまりに落差があることに愕然とすることが多いが、それはまた別の問題で、株主利益などの追求もほどほどにして、ビジネスの社会的帰結についてもう少し自覚的になってもらいたいものだ(う〜む、どうもまとまらず。。。)。

さて、仕事に戻ろう。