ガンジーの心はいま

というドキュメンタリーを観る。ガンジーの故郷グジャラート州を舞台に、彼が歩いた「塩の道」を辿りながら、ガンジーの思想がどのように受け継がれているのかを問う。

グジャラートでは2002年にイスラム教徒によるヒンズー教徒への列車襲撃事件に端を発したヒンズー教徒によるイスラム教徒数千人の虐殺事件が起きた。もちろんイスラム教徒とヒンズー教徒との対立は歴史的に根深いものがあって、ヒンズー教徒の右傾化といった問題では済まされない複雑な問題がある。

監督はガンジーの思想に対してはいろいろ意見をもっていて、とくにカーストの撤廃ではなく、カーストの改革を主張したガンジーに違和感があるらしい。しかし塩の道の至るところでは、カーストによる差別が未だに根強く残り、寺院で祈りを捧げることすらできない人々もいることなどを知り、ガンジーの心はいったいどうなってしまったのかと問う。

途中の村に差し掛かったとき、貧しい人のために尽くす低いカーストの人物に出会い、ナパという村では、ヒンズー教徒とイスラム教徒が宗教の壁を越えて融和している姿を見て、ガンジーの心を見出す。

ナパでは、2002年の折に、両教徒が共に逃げてきたイスラム教徒を介護したり、結婚式にはお互いの友人らを呼んだりするらしい。両教徒が平和的に共存している姿には救われる思いがする。ただ他の村がどこか貧しそうな雰囲気なのに対して、この村は水が豊富で経済的に豊かそうであることがそうした融和を生み出しているのかもしれないとは感じられた。

映画では、ガンジーの言葉が随所で挿入される。含蓄のある言葉が多かったのだけれども、「最大多数の最大善」という言葉は冷酷な思想だというところがあった。そうではなく、「全員の最大善(greatest good of all)」こそが重要なのだと。

こうした言い方に功利主義への誤解であるとか、政治的にナイーヴだとか、さまざまな批判は可能だろうが、一方に飽食の人々、一方に飢え死にする人々がいる中で、多くの貧しい人を助けるべきだと唱えるだけではなく、そうした対立そのものをも彼の言う「愛」によって超えるべきだという文脈で捉えるべきだろうか。

非暴力主義やヴェジタリアンとしての生き方など、彼から学び取るものが大きいことを改めて感じる。