モンドヴィーノ

気にかかっていた映画をDVDでようやく観る。しかしこれは難しい映画だ。何が難しいか。観続けるのが難しい。カメラ1台で取材しているから、アマチュアのようなカメラワークで、136分ほどの映画なのに、30分も観ていると、気持ち悪くなって観ていられなくなる。

結局、無理して1時間ほど見ていたけれども、途中からはひたすら字幕を追い、話していないところでは画面から目を離すといった按配だから全て見切れていない。。。

評判に違わず、内容は優れている。エメ・ギベール氏のような伝統的なワインの造り手と、ロラン氏やパーカー氏のような、ワインブームを「作り」、グローバル化に棹差す人々などとのスタンスの違いも興味深い。

マイケル・ムーア氏と違って、ジョナサン・ノシター監督は様々な立場の人間に淡々と語らせるので、観ている方も、一応は、グローバル化、画一化を進める人々に距離感は感じるものの、それなりの意義もあるのだなと感じさせられる。

一番印象に残ったのは、「ワインは死んだ」というギベール氏の言葉。もちろんワインは殺されたのだ。ロランやパーカーによって。ギベール氏にかかると、ワインを軸に文明論から哲学までが自在に語られる。

フランス人は皆デカルトだといった人がいたが、そんなことを髣髴とさせる世代の言。「偉大なワインを造るのは詩人の仕事だ」。

彼が言う「偉大なワイン」とモンダヴィ家の人々が語る「greatなワイン」とは相当に位相が異なる。

テロワールについても、両者が語る内実はすっかり違っている。音楽で言えば、フルトヴェングラーカラヤンか。

ギベール氏はテロワールや自然や、伝統を強調する。一見、グローバル化に抗して、その土地の個性について言及しているようにも思われるが、根本的には、彼にワインの思想とでも言うべきものがあることが重要だ。

その土地や風土、伝統といったものはその思想から出てきた言葉なのに対して、ロラン氏らにはそうした思想がない。そこには単なる美味、それも飲みやすさといった個人的趣向や大衆受けする要素を持ち上げた悪い意味での「美味礼賛」の哲学があるだけだ。

この違いはとてつもなく大きいし、「美味礼賛」の嗜好はグローバルな規模で現代の食文化を覆い尽し、われわれの日々の食卓を化学調味料などによって席巻してしまっている。