普通の家族が一番怖い

言わずと知れた岩村暢子氏の著作である。お正月とクリスマスのイヴェントについてのリサーチ結果を淡々と綴ったものだが、ここには現代日本の文化状況の或る局面が鋭く描かれている。

問題はいろいろある。ここでは「楽しさ第一」主義を取り上げよう。

「クリスマスは『飲んで食べて楽しく』っていう感じですから、ウチは家族そろって意味もなく楽しく食事するんです。それでいいんじゃないかな」(181頁)。38歳の主婦の意見ながら、ここには問題が集約的に現われている。

年中行事の形骸化などという詰まらないことは言わないとして、すべての判断基準は「楽しさ」という情緒にある。そこには上の引用にあるように「意味」は求められていない。

これは食卓を囲む家族の問題だけに留まらず、社会のあらゆる側面で流通している。藤田省三が指摘した「安楽への全体主義」のまさに典型例というか極限というか、そうした事態でもある。

大学の講義でも、或いはどこかのセミナーでも、内容よりも、いかに楽しいかが重視される傾向はまさにこうした風潮の反映でもある。楽しくて、分かった気にさせればよいという傾向。

唖然としたのは、或る家族の光景である。「ウチの子は8歳だけど、小学生だろうか幼稚園児だろうがお年玉貰っているんだからお金出せるだろうってことで、幼稚園児の姪っ子も入れて、負けた人がみんなに食事をおごるキマリで家族でトランプ大会をします。みんな、すっごく燃えて楽しいんです」(40歳)。

これは例外的な一家族の考え方ではなくて、それなりに普通なあり方らしい。岩村氏はここで次のようなコメントを書いている。

「だが、考えてみれば、『現金掴み取り』も『宝探し』も、『阿弥陀くじ景品大会』や『ビンゴゲーム』も、あるいは『賭け』や『景品』を伴う集団遊びも、元々は不特定多数の人間をイベント会場に集客したり、あるいは親しくもない他人同士を集めた会場を打ち解けさせ盛り上げるための施策だったと思う。今では、一緒に暮らしていて、最も親しく打ち解けた関係であるはずの家族が『一緒』にいるために、それが駆使されるようになっているのだ」(185頁)。

まさに現在では家族は他人同士の集まりでしかない。そこに加えて、上に見るように、大人の子供化である。何かをして燃えるということ自体に意味があるというナンセンスなことを正面から主張できていることに反省化能力の欠如が見出されるが、こうした大人の子供化に対して、子供は大人化している。いや、大人化の「大人」は「現在の大人」なので、所詮子供のままでもあろうか。

自分のしていることは何なのかということが反省されないところでは、社会に於ける自分の位置づけなど分かろう筈もない。そうすると、現代の政治・経済・社会状況への思慮など為しえるはずも無い。だが、こうした状況を生み出したのは、単に本人の問題であるだけでなく、チョムスキー的な意味でのマスメディアの問題でもある。

妙な例えではあるが、ファッションの牽引役であるファッション雑誌の編集者がファッションのなんたるかを分からず素人スタイリストを重宝していたり、焼き物を分からない焼き物評論家が跋扈していたりする文化状況において、それらの中心であるマスメディアの体たらくは如何ともし難い末期的様相を呈している。