肝心なこと

房総半島沖でイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故により2名の方が未だ行方不明であるという。

最近あまり新聞をチェックしていないので、事故の報道の仕方についてはとくに頓着していなかった。しかし「世に倦む日々」の記事を知って、新聞などのメディアを見ると、「マスコミは、事故原因やその後の防衛省の報告と対応の遅れを問題にして批判している」ばかりで、事故後の人命救助をなぜすぐにしなかったのかという肝心の点が未だに取り上げられていないようだ。

事故の原因やその後のあり方も重要だろうが、何よりも人命救助こそが最重要の問題である。交通事故としてひき逃げ犯どころか、その場に居合わせて何もしないことがどれほど人命にとって危険なことかは誰でも判断できることだ。

自衛隊が守るのは国民の生命や安全ではないと言ってしまえばそれまでだが、軍隊規律の問題があるにせよ、人命救助が組織の縛りでただ見ているだけというのはあまりにお粗末だ。

そういえば、「人命救助するとクビになってしまうイギリスの消防士」というニュースが。。。日本でも看護婦の医療行為の範囲についていろいろ議論があった。

人命といえば、連想したのは、どこかで読んだこんなエピソード。

戦前だったか、或るバスに青年が乗り込んできて席に座った。神社に通りかかると、必ず手を合わせていたが、老婆が隣に立っていてもそれに配慮する様子はない。これはどこか妙ではないかといったエピソード。

この場合、その青年が一見元気そうに見えて実は何かの病魔に冒されていた体だったのかもしれないし、単に老婆に席を譲る理由を見出せなかっただけなのかもしれないから、神社への信仰心と日常道徳とが乖離しているという批判は必ずしも当たらないかもしれない。

しかし目に見えない、具体性の無いものへの帰依なり同一化なり、信心といったものは往々にして容易に為されうるのに対して、具体的なものへのコミットメントは困難なことが多い。

近年の右傾化(或いは断片化)する政治状況の中で、戦没した「先人」への追悼の念を表明しつつ、目の前にいる生きた「先人」たる高齢者にはますます生き難い状況を強いていることをよしとしているように思われる風潮とどこか重なるものを感じる。。。