36

本日また齢を重ねる。そのこと自体に感慨はないけれども、やはりこれまでとこれからの自分を考える上ではよい機会になる。

ともあれ今日は親友の引越しの手伝いでお昼頃、東村山まで。思ったよりも早く終わり、久しぶりの肉体労働だったので、夜は新宿の蕎麦屋で一献。

お互い明日があるので、早めに切り上げて帰宅。

ところで先日『いのちの食べかた』を観る。原題は『Our daily bread』。日々食卓にのぼる食材がどのような形で生産されているのかについてのドキュメンタリー。

機械産業による食肉や農産物の生産工程はどこか整然としていて「ドイツ的なるもの」を感じてしまうが、内容としては、ひたすら工場での解体の様子やそこで働いている労働者の様子を映していて、説明文のようなものはない。

この映画から受ける印象は、機械で動物が殺されていくある種ショッキングな映像も、毎日の食卓で目にするものが、こうして作り出されるのかという理解を促すだけだというもので、日本語のタイトルが示唆するような食べ物への感謝などへはさっぱり出てこないように思われる。

そこに出てくる「いのち」は<いのち>には見えないような形で処理されているからだ。いのちに付随する泥臭さというか、そうしたものは一切抜き去られていて、無色透明の、スーパーに並ぶ食材が如何に作り出されるのかということを知るに過ぎない。

こうしたわけで日本語版にはせめて説明文を要所要所でいれてもらいたい。オーストリア辺りの人には常識であることも、われわれには肌感覚で分からないところもあるからだ。ただそうしたことができなかったのは映画監督が取材した企業からの要望でもあるかもしれない。

一方で、畜産物などへの反対を表明する人々は、動物が人間の欲望のために、病気になっても、精神を破壊されても、食肉となればよいという観点だけで、いかに過酷な状況にあるかということを指摘する。

これは企業にとっては大いに都合の悪い事実だろう。今回の映画でもそれらしいことはごくわずかに映されていたけれども、その問題性を感じられる点はほとんどなかった。

総じて、この映画は機械化された農業や牧畜業のあり方を淡々と描写しているだけで、そこからどのようなメッセージ性を読み込むかは読者に委ねられている。そうした禁欲が観ている者にとっては歯がゆく感じるところでもある。