食と身体感覚

食品には、すべて製造年月日や賞味期限、或いは消費期限を明記する必要があるわけだが、昨今の偽装の問題には一筋縄ではいかない問題がある。

こちらで「赤福」の件について論じていることは、赤福のしたことは確かに問題ではあるが、それはそれこそ江戸時代から行なわれてきたことはないのかということだ。

ただ私が少し気の毒に思うのは、売れ残りの餅を再利用する行為はおそらくかつては、当たり前の慣習であり、お米やお餅は決して捨てないというのは、日本の広く認められた「食文化」であったのであろう点で、逆に売れ残りを焼却処分するような乱暴な「文化」こそが、最近のファーストフードや外食チェーンに代表される欧米流衛生管理法がもたらした大量消費的な「潔癖」な「文化」なんじゃないのか、という少し寂しく思う点なのであります。

幸田露伴の娘が賞味期限の切れたものを捨てようとしたら、露伴が怒って、食物そのものが食べられるかどうか、品質がどうかといったことは人間のもっている感覚で見定めるもので、そんな表示に頼るとはそうした感覚が鈍った証拠で、そんな教育はしていないと言ったとか。

テクノロジーや技術の進歩、便利な商品の開発が人間の感覚を麻痺させてしまうという点は重々考えておくべき問題だろう。

『身体感覚を取り戻す』というのはまだ斎藤孝さんがまともだった頃の良書だけれども、まさにそのタイトル通りのことに思いをめぐらす話がここ最近は多い。。。