そういえば、

先日観た『SiCKO』で、次のようなやりとりがあった。

フランスでは国民がすぐにデモをやったりするので、政府が国民を恐れている。アメリカでは逆に国民が政府を恐れている、と。

確か、ヴェーバーの『プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神』に、アメリカでは猟官制などもあり、あまり能力のない人物が政治の実権を握ることに疑問をもったヴェーバーに対して、アメリカ人が、賢い人物に実権を握らせると、われわれを支配しようとするじゃないかと言ったとか。

ヴェーバーアメリカ旅行をしたのは1910年代くらいだったと思われるけれども、1930年代にアメリカは変わったのか、それとも二次大戦中、或いは後なのか。。。

また日本では政治に携わる者を「先生」と呼ぶように儒教的な聖人君子の観念が濃厚のように思われる。

しかし政治に携わることは生殺与奪の権に関わることで、或いは最終手段としての暴力装置にも関わることであるから、相当胡散臭いことに関わることになる。

これまたヴェーバーだったか、イエス仏陀はこうした政治の営みの本性をよく理解していたからこそ、政治にコミットしなかった、と。政治に携わる者には清濁併せ呑む覚悟が必要であり、そこでは一貫した倫理的生き方はできないのだろう。

こうしたリアル!?な認識が欠落していることが日本の政治意識の問題のような気もする。

ともあれ一番上で挙げた問題にひきつけて言うならば、日本の場合、政府は国民を恐れる一方、国民も政府を恐れているような妙な構図になっているようにも思われる。。。