待望の聖書訳

田川建三『 新約聖書 3 パウロ書簡 その1 訳と註』(作品社)が出た。

今までちゃんとした訳注がほどこされた日本語訳がなかったので、今回の田川訳はたいへん貴重な仕事だ。全6巻の予定で、来夏は『マルコ福音書』だから、これまたとても楽しみだ。

聖書に脚注をつけなくなった「伝統」は欽定訳からとも言われる。2千年以上の前の、マルコ福音書のように、ギリシャ語があまり得意でない著者の書いたギリシャ語や、当時の言語習慣などが恐ろしく異なった社会のことを念頭に置いて書かれた聖書を読むのに訳註がないというのは恐ろしいことでもある。

新改訳聖書』のような狭隘な「原理主義」的立場のように―これは少々極端な例だが―、特定の宗教的信仰を押し付けようとする立場の人がこれまであまりに多かったということもあろう。

『聖書』は人類の大いなる知的遺産だが、一方で、特定の制度宗教の経典でもあるから、宗教的信仰というか、護教的立場が色濃く反映した翻訳が多かったのも仕方なしと言える。

最近出た岩波訳は新共同訳などとは異なった特色を出そうとしていることは伺えるが、どうもあまり親切ではなかった。やはり荒井氏を中心とした現在の新約聖書学というのは、どうもあまりよい方向に動いていないように感じるのは気のせいだろうか。

―文化、芸術、学問に限らず、或る一個の存在がヒエラルヒーを作ってしまうと、その領域がたいていの場合、堕落、停滞してしまうという現象は見られる。最近見知ったところでは、陶芸における黒田陶苑、クラシック音楽におけるコンクール至上主義.......

ともあれ、今回の刊行に始まる田川訳聖書はキリスト教理解、いや、イエス理解にとって基本書となるだろう。

ただ書物として600ページほどある中、翻訳の本文は100ページもない。

つまりそれだけ注釈に紙数が割かれている。それぞれの箇所について、なぜそこではそのように訳すのか、それまでの新共同訳ではなぜ違った訳がつけられていたのか、他の系列の写本と比べてそこではなぜその写本の系列を採用したのかといったことなどがきめ細かく書かれている。

また聖書を読む際の最高の学術的辞書とされるバウアーのものでも相当に見当違いな訳語が並べられていることなどにも触れられている。

序文を読んで意外だったのは、田川氏が『ルパン』をフランス語で読んでいたことだった。日本語で読んだルパンとフランス語で読んだルパンとではルパンの印象が相当違うらしい。。。