作品解釈の問題

フルトヴェングラーが1934年に書いた短いエッセイでは、芸術作品を解釈することにまつわる問題が論じられている。

当時、「楽譜に忠実な演奏理論」と「創作的再現の理論」という2つの作品解釈があったらしい。

フルトヴェングラーはどちらの理論も無視し得ない一面をもってはいるが、楽譜に忠実な演奏の場合、例えばそこに指示されたフォルテという記号は作曲者が意図している強さを知りえる手がかりを何一つ残していないと言う。

とくにドイツの古典作曲家の演奏記号は意識的な効果をねらったものではなく、象徴的なものとなっていて、「使用する個々の楽器の実際の演奏のためにつけられているのではなく、作曲全体の意味を生かすことを考えてつけられてい」る。

さらに彼は「楽譜に忠実な演奏理論」はそれ以前の非常に個人主義的な演奏や耽溺に対するある種の反動的現象であるけれども、「創作的再現の理論」にしても、「過去の音楽の時代の演奏様式も、いまだかつて『再現芸術家』によって作られた試しはなく」、「それはむしろ作曲家によって創られてきた」と言う。

それが可能になったのも、

「これらの作曲家達が自分自身を過去の芸術の自然の継承者であり、完成者として感じていた間だけ、すなわち彼らが過去の芸術に対して生きた関係をつないでいた間だけ、可能だったのです。」

つまり「楽譜に忠実な演奏理論」にしても、「創作的再現の理論」にしても、それは同じ時代に同じ原因を元にして生じた現象であり、それは次のことに由来するという。

今日、我々の音楽的な生命のいっさいをひっくるめて、強圧的な支配を加えているあの不安、というのは、純粋音楽的なるもの、完全音楽的なるものに対する単純素朴な本能、安定した本能が、突如として、途方もなく衰退してしまったということにほかなりません

作品解釈の必然さと重大さはまた次の問題とも関連してより切迫しているという。

形象的な言い方をすれば「混沌を造形された作品」に創造する働きは、『即興曲』をつくるという活動の中で遂行されます。すべて『即興曲をつくる』ということが本当にいっさいの真の音楽活動の根本形式なのです

「自由奔放に空間の中に飛翔しつつ、不回帰な真の出来事として作品」が生まれだすから、作曲家が内心から外部へ向けて向かうのに対して、再現音楽家は外部から内部に向かわねばならない。

だから再現音楽家にとって取り組むべきことは「個々の細部」となる。強弱や演奏の形式などを個々の細部について細心の注意をもって把握する作業が重要となるが、それはしかし作曲家が作曲するような過程をもって行なわれていく必要がある。

しかしこのような一人の器用な指揮者の手によって作り出されたアレンジメントと、作曲家、芸術家の力によって必然的に論理的に完成された有機体である作品との間には、もちろん相違があるわけです

「巨匠のつくった真の作品、あらゆるその個々の部分を、いわば即興的、必然的な連関を持って貫いている生命ある過程」、「『全体』なるものの存在への認識」、「或る作品の全体をなすもの、作品の生きた構造を正しく、把握すること」が肝要となるが、

今日の時代そのものが、すべて有機的な根底のあるいっさいのものに対して、まったく絶望的に対立し、解釈者は本能的=自然的な伝統が欠乏している結果として、いよいよ自分自身にだけ頼らざるを得なくなっている

これが当時の演奏会の危機、演劇の危機といわれるものの真の原因であり、それはアメリカとの接触によって生じた演奏技術の進歩によって解決できるものではなく、ただひたすら「構成的なものの真の認識」を行なう重大さを我々は担わされていると言う。

作品解釈から演奏技術の問題、さらに文明批評へと繋がっていくフルトヴェングラーの魅力を余すところなく発揮したエッセイ。

他の指揮者と比較して、一見、恣意的にテンポを揺らしたりする彼の演奏が実は作品全体の構造から必然的に生み出されたものなのだということは丸山も指摘していたが、こうした視点から見ると、それまでの音楽の伝統から切り離された時代の宿命の中で、作品に対峙して、それを理解し、解釈し、再現しようとすることは非常に重い仕事なのだと思わざるを得ない。。。