カミュ

不条理という言葉で括られることの多いカミュだが、久しぶりに読んでみたくなって書棚から数冊手に取ってみた。

高校時代、どういうわけか愛読書だったカミュ。読もうと思った経緯は覚えていない。フランス語で読もうという旧制高校的な考えは毛頭なく、新潮文庫の銀色のカヴァーに妙な愛着をもっていた。

サルトルアンガージュマンや革命について熱く語っているのには、どこか違うという違和感を抱いてあまり引き寄せられず、カミュの「反抗的態度」という地に足をつけた、しかし煮え切らない態度に共感を覚えた。

しかし『シーシェポスの神話』を読み返して、こういう話だったのかと、ようやく得心がいったように思う。

昔、読んだ本の内容をすっかり忘れ、改めて読んでみてその本の主張が明瞭に捉えられるという経験は往々にあるが、この本もそうだった。おそらく以前、読んだ折にはただ読んだだけで、血肉化していなかったのだろう。

「ひとを圧しつぶす真理は認識されることによって滅びる」

「幸福と不条理とは同じひとつの大地から生まれたふたりの息子である。このふたりはひきはなすことができぬ」

「不条理な人間は、みずからの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙のなかで、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる」

そうした宿命は不条理な宿命でもあるのだが、それを負うべき日々はその人間の手中にある。「人間を超えた宿命などありはしない」のだ。

「ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出す。しかしシーシェポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜に満たされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで人間の心をみたすのに十分たりうるのだ。いまや、シーシェポスは幸福なのだと思わねばならぬ」