試される憲法

東京新聞のシリーズに「試される憲法」がある。

今日は堀田力氏曰く、

「もはや民主主義国間の戦争は起こらない。戦争は独裁政権が起こす侵略戦争か、国家の中の民族やテロリスト、武装集団が引き起こすものに限定されてきている。」

民主主義国家がなぜ戦争をしないのかという点についての考察がおそらくすっぽり抜け落ちているようだし、戦後のアメリカが世界各地でなしてきた「テロ」を等閑視できるとはまったくもってひどい話だ(もっとも取材のときに語ったことがメディアに載る際には相当歪曲される可能性があるので、本当にわずかな文章しか載っていない情況で、このように判断するのは早計かもしれない)。

少し前の櫻井よしこ氏もひどい。

「例えば、日本は世界一の高齢社会です。息子や娘が親を老人ホームに送る。しょっちゅう訪ねていればいいけれど、そうではなく、ひどい場合は死後にしか行かない。子どもの育て方はどうか。虐待や食事もさせない放置も目立つ。そうした親ばかりではないけれど、ひどいケースが目に付きます。

 ここから浮かんでくる日本人の姿は決して美しくないと思うのです。権利と自由ばかり主張する憲法、そしてその上に立つ教育制度で育った人たちが、親になってしていることなんですね。」

これは憲法とは何の関係もない話なのだけれども、氏によれば、権利ばかりを主張している現行憲法が悪いのだそうだ。

「私たちの社会を支えてきた昔ながらの価値観をもう一回、この国の根本に置いたらよいと思います」ということなので、それでは、口減らしのために子殺しを行なってきた「伝統」や姥捨て山の「伝統」を復活させるというのか。

そんなわけはあるまい。所詮は主観的な思い入れを「伝統」という言葉に託して語っているだけに過ぎない。

その点、宮台氏の議論はあまりに現実主義的だけれども、以下の点は首肯し得る。

憲法は、国家への国民の意思を書いた「覚書」です。戦後日本に、この憲法でいいという「憲法感情」はあっても、国家をどう操縦するかという「憲法意思」が乏しい。だから何が書かれていても空文化してしまう。」

お上意識、権威脆拝意識が強いから、国家をどう操縦するかという視点が一般には乏しいというのは如何ともし難い「伝統」でもある。

日々、無数の不利益を蒙っている労働者に対して、団結して、国会を囲めばよいというのは旧来の左翼が目指してきた運動だけれども、労働の現場はもっと細分化されているから、そうした運動への動機付けはきわめて弱い。

現状を打開するにはもっと別の運動「新しい社会運動」のニューヴァージョンが必要なのだろう。