桃山陶をめぐって

先日、美濃で桃山期の志野茶碗や織部の香合を直に触れる機会を得た。

もちろん桃山陶と言っても、ピンからキリまである。しかし先日はまさにピンの名品が揃っていた。

現代の志野茶碗はでっぷりとした形に、少々厚めの釉薬がかけられたものがほとんど。それに対して、桃山期(或いは江戸初期)の志野茶碗はうっすらとかけられた釉薬に造形も自由奔放である。

現代に見られる様々な形の茶碗があるから面白い。高台なども相当個性的で、作り手の自由な発想が前面に出ている。

そして、それにもかかわらず、或いは、それ故にか、どの品もバランスがすこぶるよい。

ただただ溜息をつくばかりなのだが、作品は次から次へと箱から出されてくるので、正直、一つの作品にゆったりとひたっている暇はない。

2時間ほどだったが、異様に濃密な時間を過ごさせてもらった(紹介者に感謝!)。

さて、この名品を拝見させてもらったお店で、或る話を聞いた。それは単にひどい話であるばかりでなく、現代日本の伝統文化を取り巻く状況を大いに反映していそうだったので、少し取り上げてみたい。

或るお客が、このお店で買い求めた逸品を「なんでも鑑定団」に出したところ、贋作という評価を受けたらしい。そのお客は他にも加藤重高や愛知県陶磁資料館などに鑑定を依頼したが、ことごとく現代に作られた贋作であるという評価だったらしく、既に売買が成立しているものながら、返品しろと迫ったらしい(しかも箱にはそのお客が自分で木目に直角に箱書きしていたというから飽きれ返る)。

どのような規準で贋作判定をしたのかは分からないが、見せてもらった限りでは、古の一級品である雰囲気をたたえているし、こうしたものを現代陶の人が作れるとはとても思えない。

そもそも桃山期の志野や織部の鑑定において牧野氏を超え出る人物は現存しない。化学的な判定をすれば、より明らかになるだろうが、桃山期の志野・織部の発掘調査に携わり、研究を続けてきた牧野氏と、そうした労苦をしないで資料だけで判断する学芸員などと比べればどちらが鑑定に適しているかは一目瞭然のはずだ。

一般的に言っても、桃山期の歴史について事情を知りたいなら、桃山期の研究者と明治期の研究者のどちらに聞けばよいかは一目瞭然なのだが、こうしたことが通用しないのが現代の伝統部門における「権威」のあり方のようだ。

古伊万里を専門に扱っている者と、志野や織部を専門に扱っている者のどちらが志野や織部の鑑定において信頼できるか、答えは当然後者のはずだが、それが通用しない現代の日本の文化状況は明らかにおかしい。

単に「権威」の地位にいる人間が勉強不足であることも問題だが、本来ならば、そうした裸の「権威」に対してノンを突きつけるべき事柄である。

作品そのものを見る目が失われていることは大きな問題だと誰もが指摘しがら、その状況を生み出している構造にはあまり注目されない。

「本物」が遠ざけられ、「権威」に盲従し、時には金銭や物品の授受によって保たれている「伝統」の世界に楔を打ち込まないと、伝統文化の在り様は大きく後退してしまうのではないか。。。