日本陶芸展

最終日。招待券を戴いたので授業の前に東京駅の大丸へ。

ぱっと見た感じでは、まず「造り」が凄い。本当にどうやって作ったのだろうと思われるほど見事な作品が並んでいる。

もちろんそうした造形を保つために、焼きはガスや灯油、電気で「火の力」を使わない。繊細さを突き詰めた作品たちである。

さて、以下は酔っ払っているので戯言となる。

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妙な言い方をするけれども、「日本的なるもの」を感じない(何が日本的なるものかは措く)。

異様に対称的なもの、対称性を残しつつそれを崩したもの、そして均一性。それらが高く評価されているというか、審査の規準がそうした点にあるのではないかと思われるほど、どれも「似た」作品になっている。

だから、伝統部門にしてもそうだが、傾向として、長き「伝統」の中に存在して、そこで新しいものを生み出そうとしているのではなく、西洋コンプレックスが表出して、オブジェ的なものが支配的なのだろう。

これは陶芸の世界だけの話ではなく、「伝統」を掘り崩された日本の文化状況を物語っているように思える。

さて、この日本陶芸展。伝統部門の審査員はたったの6名(乾由明金子賢治、竹内順一、中ノ堂一信、林屋晴三、吉田耕三の諸氏)。

600点におよぶ作品を審査するのにこの人数ではそもそも少なすぎないかという疑念が浮かぶ。。。

しかも招待作品の出来もあまりよくない。「実力日本一」と銘打つ日本陶芸展だが、ここしばらくどこまで名は体を現わしているのか、そして、どこまで「実力」なのか、大いに疑問。

とりわけ焼締系は絶望的だ。唯一、備前の花入はよかった(が、名前を失念)。形といい、焼きといい(だが、下の階であったぐい呑みはよろしくない)。

信楽の招待作家N氏の作品に至っては、あれがなぜ「招待」なのかさっぱり理解できない。

一方、亀井味楽さんは相変わらずお見事。長き伝統で培われたものを自家薬籠中の物にしている。必然的に帯びざるを得ない「気品」とはあのようなことだろう。

ところで、会場の大丸。すっかり勢いが落ちていて驚いた(いや、あったのかという問題もあるけれども)。

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さて、某書評に加えて、書評論文を早期に仕上げる必要が出てきた。そしてそれを前提にしつつ、現在の研究水準を示すような論文を1〜2年の間に書く必要に迫られている。。。頑張ろう。。。