廣松渉

学生時代、大森荘蔵に並んで読み耽った哲学者と言えば、廣松渉

大森荘蔵からは四股構造論を四つ股理論と揶揄されていたが、小林昌人編『廣松渉哲学小品集』というのがある。

所収の「脳死論の前提的価値観を問い返せ」は1990年に掲載されている。最近の『情況』で特集された生命倫理学批判がどうも言いがかりのような雰囲気であったのに対して、真っ当なことが書かれているように思われる。

脳死論をめぐる問題として、人間の死を「生命機能の停止」か「精神機能の停止」かによって定義づけるという試みがなされてきた。

生命機能の停止は心臓死の立場、精神機能の停止は脳死の立場だが、そうした二項対立を認めてしまえば、脳死論に軍配があがると言う。

どちらも、身体の細胞がすべて死んでいない(臓器移植が可能なのは、まさに死んでいないからだが)ということから考えると、それらは依然生体なのであって、どの線引きで妥協するかという問題に帰着するからだ。

「全細胞死という基準に固執し、臓器移植という名の原理上の生体間移植にも反対するでないかぎり」、結局、どのような条件が整えば、臓器を摘出・移植してよいかという問題に収斂してしまうというわけである。

さまざまな機械をとりつけてまで生命を維持することがそれほど優先的な価値であるのかという廣松の問いはそれだけを見ると、医療の現場で生じている厄介な問題を素通りしてしまうことにはなるが、死をめぐる根本的な問題提起でもある。

もちろん、これはこれで厄介な問題である。