今更ながら、ら抜き言葉

少し前に「ら抜き言葉」が目の敵にされた時期がある。しかも言葉の乱れといった曖昧模糊とした妙な言い方で。

ら抜き言葉」は、たとえば「来られる」という表現が可能だか尊敬だか文脈によっても分かりにくい場合があるので、それらの意味をより明確にする上で有意味だと思っていた。

つまり「来れる」は可能、「来られる」は尊敬と使い分けると便利だ。ただその便利さはせいぜい山梨の方ではそうした言葉遣いが昔からあるとか、北陸の方でもそうらしいといった経験的事実か、言葉は変化するものだという漠然とした考えしか思いつかなかった。

昨晩、寝る前にぱらぱらめくっていた小松英雄『日本語はなぜ変化するか〜母語としての日本語の歴史』(笠間書店)に、助動詞の変化として、このことが上手に纏められていた。

助動詞「ル」(例:見ラル)が、平安末期に「ルル」(例:見ラルル)に、さらに「レル」に変化したので、準語幹の「レ」が確立されて、「見レル」という表現でも、動詞と助動詞との反射的区別が可能になった。それが「ら抜き言葉」であるという次第(もちろん本の中ではもっと詳細に検討されている)。

一義的に意味が定まる表現ならば、より円滑な言葉の運用が可能になるわけで、そうした視点から「ら抜き言葉」への非難は日本語進化の過程で生じている軋轢に過ぎない。

著者が言うように、(若者が使うと「される」)「ら抜き言葉」はあくまで「可能」の表現だけにとどまっていて、「受身」(「友達に来れて」とは言わないし)や「尊敬」(「描いた絵をほめれた」とも言わない)の意味では決して使われないという点も重要だ。

「どれほど合理的な変化であっても、新しい言いかたは、当分の間、低く位置づけられ、それを使う人も低く評価されることを知っておくことは、社会生活における円滑な伝達にとって大切なことである。(中略)

正しい日本語が客観的かつ固定的に存在するわけではない。相手に抵抗を感じさせないのが正しいことばづかいであり、とりもなおさず正しい日本語である。相手しだいで、いくとおりもの正しい日本語があり、その場に応じてそれらを適切に使い分けるのが言語運用の能力である」(241頁)

昨今、正しさ(正義。そしてまた善悪)についての一般的な考え方は、ともすれば、正しいかどうか(善いか悪いか)の規準は人それぞれという話へと落とし込まれることが多い。

けれども、「正しさ」はやはりこうした形で何がしかの観点から主張される意味ある言葉として流通させるべきだろう。