結婚なるもの

『プロ倫』に、結婚(婚姻。両者はとりあえず同じものと考える)に関するプロテスタントの見解が出ている。

ピューリタンのバックスターは「婚姻の目的は『節度をもって子供をもうけること』だ」と言う。

敬虔派の見解では「婚姻の最高形態は処女性を失わないもので、それに次ぐのが性的交渉がもっぱら子供の出産のために役立てられるもの、順々にそのようにして、単に愛欲的な、あるいは単に外的な理由によって結ばれ、倫理的に見れば畜妾にひとしいものにまで行きつくことになる」となるらしい。

「禁欲的プロテスタンティズム」らしい見解であり(但しヴェーバーが言う「禁欲」とは単に性的なものではないけれども)、またキリスト教的な前提を外すと、それなりの共感はあるけれども、単なる偏見というか、時代的な産物である。

結婚の主観的な意味はとりあえず措くとして、結婚は社会的・宗教的・法的な制度である。目的は家庭の構築、性的関係の正当化、社会的安定性の確保、教育機能、財産遺贈などなど(参照:http://en.wikipedia.org/wiki/Marriage)。

近代家族生誕の陰にはロマンティックな心情があることはよく指摘される。人々は「労働」という疲れた世界に対して「家庭」という癒された世界を生み出そうとした。

合理主義と表裏一体のものとしてのロマン主義というと、単純過ぎる話だけれども、現代においても、情緒的な関係が家族の重要な要素であるという点は近代以降の流れと同じで、それどころかますます強くなっているようにも思われる。

もちろん現代は一人で生きることが可能な社会である。コンビニやスーパーをはじめとする外食産業のお陰で、食べるものには困らないし、たいていのことは金銭的に処理がつく。

ベルトコンベアとは言わないまでも、日常生活でのコミュニケーションでも個別性はあまり重視されず、機能性が要求されることが多い(裏腹に老舗などでの、客個人個人に応対する接客の姿勢が好まれたりする)。

そうすると、結婚など面倒なことはせずに生を謳歌しようという風潮も当然に出てくる。

ともあれ、情緒的な結びつきが果たして結婚生活において、どこまで保たれるのかはよく分からない。

人間の集団である限りは、そのつどそのつどトラブルが生じることは避けられないから、嬉しいことばかりでもないだろう。

よく耳にするのは、恋愛関係は長く持たないということだ。すぐさま日常の些細な事柄が原因で冷え切ってしまうことが多いという。

永遠の誓いという「ありえないもの」への不断の努力。そうしたことへ憧れは抱くものの、相手を理想化して永遠性を手に入れようとするのは徐々に変転し行く現実の相手を見ないことになるし、恋愛関係をそのまま長年月維持することも難しい。

そうすると、価値観というか、考え方というか、そうしたものがどこまでお互いに許容できるものなのかどうかが重要になってきそうだ。

経済的な問題はなんとかなるものだけれども、考え方といった側面で折り合うことはなかなか難しいように思う。

ともあれ、戦後の平均初婚年齢を見ると、確かに晩婚化は進んでいるものの(戦後ずっと緩やかな上昇線を描いている)、男性の平均初婚年齢は意外に高い。

厚労省の人口動態統計を元にしたデータによると、

1950年(昭和25年) 男性25.9 女性23.0
2005年(平成17年) 男性29.8 女性28.0

平均値を大きく上回っているからというわけでもないが、少々焦りを感じるこの頃。。。