年末、聖書...

20日のマトゥーリのコンサートも無事終わり、年末の気忙しさも少し緩やかになったようだ。

そろそろ年賀状を書かないといけない。今年は亡くなった方が多くて、寒中お見舞いになるところが結構ある。

そうこうしているうちに懸案の某仕事がいよいよ始まりそう。先日、福祉をテーマにした経済思想の本の一節を書かせてもらったが、農業、教育や芸術、果てはメディアに関わる仕事で、それらは有機的に繋がっていながら、よき社会、よき生き方(=福祉)を中心に据えている。

今年掲げた目標にはさっぱり到達しなかったけれども、来年は激動の予感。。。

昨日は久しぶりに聖書を手にとる。あまりに商業主義にまみれてしまったクリスマスは好きではないけれども、そしてクリスチャンでもないけれども、聖書を手に取るよい機会である。

クリスマスにちなんでイエス生誕物語をJさんと一緒に、各福音書で読んでみる。

正典にある中では最も古い『マルコ』はイエスの生誕について触れていない。田川氏によれば、それはイエスの生前、彼が何をしたかを訴えようとしているのであって、宗教の教祖にありがちな神話や、またイエス後のユダヤ教に先祖がえりしたキリスト教に即した挿話は差し控えているとのこと。そうかもしれない。

『マタイ』では最初に長い系図が出てくる。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを...」と続く。

「新共同訳」ではこれら人名に一切注釈をつけていないし、最も新しい岩波版でもほんのわずかの人物にしか注釈をつけていない。

しかし旧約の人物たちを頭に入れるほど読み込んでいる人はそう多くはないだろうから、ここはやはり注釈をつけておいてほしいものだ。

少し脱線すると「創世記」には、アダムとエバが人類の始祖として出てくる。彼らはカインとアベルをもうける。しかし兄のカインは神の寵愛が自分に向かず弟アベルに向いたため、弟を殺してしまう。そしてカインは呪われた者となり、エデンの東に住む。

さて問題はカインはそこで妻を娶り、エノクをもうけるのである。この妻とはいったい誰の子だろうか。アダムらはアベルが殺されたため、セトという男児を設けただけであり、第5章第4節には「アダムは、セトが生まれた後、800年生きて息子や娘をもうけた」とある。

ともあれ、『マタイ』に戻ろう。イエスの誕生について、マタイ教団は次のような物語を作っている。

主の天使がヨセフの夢に現われ、マリアが子供を宿しているのは精霊によるものだと伝える。婚姻以前に身ごもることは当時としてもご法度だったので、これを聞いたヨセフは安堵する。占星術の学者たちが東方からエルサレムにやってきて、星に導かれてベツレヘムにいる幼子イエスを見つけるという次第(イエス生誕劇では登場する博士は「3人」であるという記述が多いが、福音書にはそうした限定はない)。

そしてヨセフたちはアルケオラの迫害を逃れて、ナザレに辿り着く。岩波版によると、マタイ2−23にある「ナザレ人」という言い方は、原語ではここだけ「ナゾラ人」となっていて、これはシリア地方(マタイ福音書成立の地)で初期のキリスト教徒をさす一般的な呼称であったらしい。

こうした点もあるので、田川版新約聖書の早期翻訳出版がのぞまれる。。。

さて次は『ルカ』である。ルカではまず受胎告知がある。御使いのガブリエルがナザレに遣わされ、ヨセフの家に入って、マリヤムに祝福を告げる(岩波版によると、『ルカ』ではヘブライ的発音に凝った仕方で「マリア」を音写しているという)。

『マタイ』ではヨセフの夢に主の使いが現われたが、ユダヤを救済する王としてイエスを描く『ルカ』では、マリアに現われている。

そして荒野のヨハネもまたエリザベトという女性に神の力によって宿り、生まれたことが『ルカ』には出ている。

さて戸口調査のために、ヨセフはナザレからベツレヘムに行ったことになっている。ヨセフはダビデの家系だったからという理由だが、50キロ以上もある道のり。

そしてマリヤムは(旧約での話の筋書き通り)ベツレヘムでイエスを生み、飼い葉桶の中に寝かせた。その夜、羊飼いたちが野宿していると、主の御使いと天の大軍勢が現われ、神を讃め称え、救い主の生誕を告げる。

羊飼い達はベツレヘムにやってきて、飼い葉桶に眠っている幼子を見つけ、讃め称える。。。

こうした脚色には、まぁなんともという感じがしないでもないが、明日をも知れぬ運命の人々にとって、救い主が現われるということの意味を表現するには、これくらい大げさな方がよいかもしれない。

独特の神学的観点から書かれている『ヨハネ』はイエス生誕についてはほとんど触れていない。

結局、まともに聖書を手に取ったのは、昨年のクリスマス以来だろうか。。。