正統と異端

言わずと知れた丸山眞男未完の論考(編集)。

『自由について』で、次のような発言がある。

「初めに異端ありきなんです。今度はそれに対して正統が出てきて、異端を吸収していくわけ、吸収しない正統は没落しちゃうわけです。吸収する正統が生き残ります。だが、また絶えず異端が出てくるけれども」(17頁)

また異端のダイナミズムは宗教に関わらないという点が面白い。キリスト教カタリ派やワルド派と、儒教における仁斎や徂徠が異端とされる過程とが非常に似ているということ。

異端ありきで言えば、キリスト教の聖書正典化の過程はまさにそうだし、こうした正統と異端という切り口で見ると、世界宗教の比較視座としても面白い。

また「一つは俺は異端でございという異端、これはヨーロッパにはないんです。俺こそ正統であって、いま正統と称している奴はインチキで異端だ―、というのがあらゆる異端の主張なんです」(21頁)

日本の場合、仁斎や徂徠のように、ヨーロッパ的な意味での異端もあるが、「日本的異端」というものもあるという。

丸山はそれを「片隅異端」と名づけているが、集団の片隅にいて正統とは異なった考えをもっているが、正統になるダイナミズムをもたないものとされる。

「つまり日本のいわゆる異端の特色は、自称異端で、異端であることを誇りにすること。それから、片隅でブツブツ言っているだけであって、全体を変革していくダイナミズムを持たないという、そういう2つの条件があるんです」(24頁)

正統にもOrthodoxyとLegitimacyがあるといって、前者をドグマをもつO正統、後者を政治団体への服従を調達するための思想的・心理的条件を指すL正統と分けた上で、儒学は教義が「治国平天下」ゆえに、O正統が無限にL正統に近づくという点が面白い。

さて仕事。