古層−統治

昨夕は新しいお茶室を拝見して眼福。新しいお宅に気合の入ったお茶室。昨今、あのレヴェルのお茶室を作られるとは、尋常ではない熱意とアイデアを感じる。

夜は学部時代の友人らと一杯。小売業にまつわるいろいろな話を聞く。

寝しなに枕元にある本は丸山眞男『自由について』(Sure、2005年)。新しいことが多く盛り込まれているわけではないけれども、統治に関して興味深かったのは、竹内好が「臣民」という言葉は中国にはないという話に丸山が言及している箇所。

中国では臣は君の側で君臣を構成し、民は人民だから、臣と民は区別される。日本では君臣が対立せずに天皇の方に向かって上を向いている(この点、西洋の文脈で君臣民の言葉を使う場合には改めて注意する必要がある)。

関連して、「政事」(まつりごと)は「奉献事」で、日本では政治が下から定義されていて、世界的にも非常に珍しい概念であるという指摘も面白い。

「政事」(まつりごと)が「祭事」であるとしたのは伊勢神宮の外宮のイデオローグによる言葉の綾で、「政事」が「祭事」であるという定義は北畠親房以前には遡らないらしい

それ以前の宗教行事は「イハヒゴト」や「イツキゴト」=斎事。宗教行事は政治行事に従属するというのが丸山説。

政事にはついては「政事とりもつ」という表現が宣命祝詞によく見られるらしく、いわば上と下との媒介者としての役割が重視されていたことを示すという(奉持や奏賜などは中国には存在しない表現らしい)。

古事記』で重要なのが「かへりごとまをす」(=覆奏、復命、報命)。任務を遂行したならば、「かへりごとまをす」。それを聞き届けるのが天皇であり「きこしめす」「しろしめす」「しらす」。いずれも受身形であることに丸山は注意を促す。

興味深いのは、イザナキノミコトでさえ「天にのぼりてかへりごとまをす」。誰に対してかは明示されない。つまり絶対者が存在しない。

古事記』でも「天地初めて発けし時」、次に「高天の原に成(なれ)る神の名は」と来る。絶対者の非在によって、世俗の統治から神代の時代を経て遡及してきたものが無限の空中に霧散してしまう。

他方で皆が同方向を向いて行なわれる「政事」では(「日本的経営」の特徴としても挙げられる点だが)、「協賛」「翼賛」の形態になる。つまり支配−被支配の観念はあまりない(これが日本に独裁という形態が存立し難い点でもある)。満場一致が支配的で、少数者の権利や利害も省みられない。

こうした日本の「古層」の由来について、丸山は日本で広く行なわれていた狭い地域での稲作における和の尊重という点を挙げる。

まぁこんな次第で、いろいろ刺激的な話が散りばめられた本である。

話の寄り道でこんなことが書かれていた。

万葉集』を見てると、恋の歌にね、「この世には人言繁し−」とかいう歌が非常に多いんです。人の噂がうるさい、と。たとえば、
《現世には人言繁し来む生にもあはむ吾背子今ならずとも》
 人の目がうるさいからあの世で添いとげようじゃないかと、そういう歌です。これじゃあ、日本はむかしから過密情報社会だったんじゃないかと(笑)。ほかの国の恋歌には、きっとこういうのはないですね。中国にも、倫理・戒律を犯すからいけないとか、そういうのならあるけれども。

さて仕事。。。