「日本」の発見

「ドイツ語しか知らない者はドイツ語を知らない」と言ったのはゲーテだが、和辻哲郎など、留学した者がヨーロッパの壁にぶつかり、その足元に「日本」を発見するというのは、多くの留学経験者が語るところだ。

異質なものとの出会いが、己のアイデンティティの反省へと向かうことはとてもよく理解できる。しかし時折、首をかしげることもある。例えばお茶の世界でよく耳にすることは、海外へ行った時、或いは日本に来た「外国人」から、日本人ならば日本の伝統文化とは何であるかご存知でしょうという問いかけがきっかけとなって、日本の「伝統文化」に目覚めるという話である。

もちろん個人個人がどのようなものを「伝統文化」として「選びとる」かは自由だし、巷間「伝統文化」と認知されているものを無自覚に選び取ることも自由である。

ただ上のような、日本人だから日本の伝統文化を知っているべきであり、身に着けているべきだというのは、あまりにナショナルな話で、しかもそこにはある種のオリエンタリズムも入り込んでいる。

江戸期、茶の湯は「家職」をおろそかにしない程度にしてもよい「芸事」のひとつでしかなかった。それが「日本の」という形容をされるようになるのは、1930年代以降だろうし、おそらく戦後のことだろう。

ホブズボウムらの言うような伝統とは創造されたものでしかないという認識だけが有意味だとは思わないけれども、一定の距離をもって「伝統」を捉えておく必要はある。

ともあれ、こうした日本の再発見については、意外に欧米かぶれした人にこそ見られる傾向でもある。しかも言動においては「日本的なるもの」(例えば過剰同調や集団行動への強制など)を忌避しながら、行動においてはまさに「日本的なるもの」を体現する。

つまり欧米コンプレックスの裏返しである。それに付け加えて自己完結した世界観の持ち主だと、勢い、様々なストレスを抱え込んでいるので、他人に対しては攻撃的になる。

そうした人の存在は尊重したとしても、まじめに付き合う必要はないのだが、様々な事情でずるずるとひきずってしまった苦い経験がある。

そもそもこちらは相手の人格を疑っていて、あまりまともにお相手したくないにも拘わらず、相手は勝手に自分のことを理解してくれているという錯覚をこちらにもってしまっていたために、ちょっとでも気にかかる言動なり行動をこちらがすると、異様な形で攻撃してきた。

様々な方から、その人とは距離をとった方がよい(できれば完全に離れた方がよい)という忠告を随分前から受けながらも、しがらみのようなもので距離を取れなかったのはまずかったなと反省することしきりである。

もちろん人間存在としてみるならば、どのような人でもあって愛すべき存在であるが、己にとって明らかにマイナスにしかならない相性の問題もある。

ちょっとでも変だなと感じたら、できるだけ敬して遠ざけることをしなければ、まったくもって無駄な時間どころか、精神的ストレスにしかならないことを学んだのはよい経験だった。

今ではその人もようやく相手を見つけて落ち着いているらしいから、ひたすら敬して遠ざけるばかりである。

大学生活が長かったので、世間を知ることが相当遅くなってしまったが、世には恐ろしい方がたくさんいるということを身をもって経験するのは早いほうがよいだろうと思うこの頃だ。。。