原発は安全か?

先日某MLで知ったこちらのページ原発の現場で働いていた人の言葉なだけに驚くことが書かれている。

現場を知らないというよりも、原発の仕組みすら知らない人間が権限をもって原発の管理をしているという恐ろしい実情は官僚支配の政治によく見られることだが、いくつか見てみよう。

「素人が造る原発」「日本の原発の設計も優秀で、二重、三重に多重防護されていて、どこかで故障が起きるとちゃんと止まるようになっています。しかし、これは設計の段階までです。施工、造る段階でおかしくなってしまっているのです。

 仮に、自分の家を建てる時に、立派な一級建築士に設計をしてもらっても、大工や左官屋の腕が悪かったら、雨漏りはする、建具は合わなくなったりしますが、残念ながら、これが日本の原発なのです。 」

それは現場から職人が姿を消したという他の方面でも見られることが要因のひとつになっているらしい。

「全くの素人を経験不問という形で募集しています。素人の人は事故の怖さを知らない、なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業しています。それが今の原発の実情です。」

そしてマニュアル化された工事では、自分の行なっている部分が全体から見てどれだけ重要かとか、どれだけ安全を左右するものなのかがわからないため、いい加減に処理される場面も出てくるという。

ボルトなどは番号が振ってあってそれを規定の場所に使うそうだが、無くす場合も当然あって、その場合には適当に合うものを見つけて使うそうだ。かような事情だから、原発の事故が頻発するのも頷ける。

また放射能の問題があって、熟練工は年間許容線量をすぐに超えてしまって中に入って作業をすることができないから、なおさら経験不問の素人が採用されることになりやすい。

「また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。」という話を聞くと、現在六ヶ所村の再処理施設の安全性を唱えている久保寺氏という御用学者の言う原発の安全性については懐疑的にならざるをえない。

引用ばかりになるが、原発の事故があまりにもひんぱんに起き出したころに、運転管理専門官を各原発に置くことが閣議で決まりました。原発の新設や定検(定期検査)のあとの運転の許可を出す役人です。私もその役人が素人だとは知っていましたが、ここまでひどいとは知らなかったです。

 というのは、水戸で講演をしていた時、会場から「実は恥ずかしいんですが、まるっきり素人です」と、科技庁(科学技術庁)の者だとはっきり名乗って発言した人がいました。その人は「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前までは、お米の検査をしていた人だった」と、その人たちの実名を挙げて話してくれました。このようにまったくの素人が出す原発の運転許可を信用できますか。 」

信用できないと言うしかないだろう。さらに「そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。」と聞けばなおさらだ。

さらに六ヶ所村でも大いに問題になっていることだが、「冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。」

実際放射能に汚染された魚であっても味覚で判断などできはしないから、被害の実態というか因果関係が特定され難い分、原発推進派にとっては大いに都合のよいことになっている。

さらにフランスの核兵器の原料ともされていることなどが指摘された後、原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いということから、白血病の孫の顔は不憫で見たくないからと結納を交わした相手から、結婚の中止を言い渡された人も出てきている。

つまり原発の周辺に住む人々にはそうした害が実際にあるのだということが一般には認識されながらも、原発は安全であるという神話がまかり通っている。

放射線が自然界に存在するとしても、だからといって原発による放射線被害を黙認してよいわけではない。

エネルギー問題が平和の問題に抜きがたく関わっていることは当然だが、日本の場合、食の安全性にも大いに関わっている。ロハスだとかスローフードとかの話が単に流行のものとして消費されずに、食の根本に立ち返って考えられ深められていく必要が今ほど求められていることはないだろう。