対話

「長崎・被爆者発言自粛要請の波紋」だそうである。長崎での原爆被害者の語り部に対して、長崎市の外郭団体「長崎平和推進協会」が「政治的問題についての発言は慎んでほしい」と要請したのがきっかけである。

これは4月頃に目にしたことだが、その波紋が広がっているらしい。いや、広がっているというか、ともすれば、公平性や中立性を楯に無味乾燥な話でお茶を濁すお役所的な発想ゆえに、それが言論の自由などを縛ることに気づいていないようだ。

 以下の話に政治的なメッセージを読み込むことは当然だけれども、至極真っ当な話であろう。

「森口さんは講話の中で三枚の子供の写真を見せた。最初は日本軍の侵略で両親を失ったという中国の子供、次に長崎の原爆で家族を全員失ったという少年、三枚目は米軍が投下した劣化ウラン弾放射線の影響でがんを発病したというイラクの少年。そして最後にこう問いかけた。

 『この三人の中で誰が一番かわいそうかな。同じでしょ。戦争では一番弱い子供が犠牲になる。イラクは今の話です。六十年前の話がイラクで今も続いてしまっている。日本が将来、戦争する国になるのか、平和な国になるのかは、みなさんが大人になったら、自分で決めるんですよ』」

 こうした話に対して、政治的な話はよろしからぬと言ったりするのは、対話ということをまったく考えていないからだろう。その場にいる教師や子供達と被爆者が対話することを考えれば、被爆者に現代の政治的な問題について発言は控えるようにと要請する必要はないだろう。

 対話を考えずにひたすら教え諭すという一方向的な形で考えているから、発言する者に対して自粛を要請することになる。つまり根本的な部分で発想がおかしい。

 さて他に目についた記事には「石原都知事 3選出馬前向き」である。東京都教育委員会のある種の「腐敗」をはじめ、3選してもらいたくない人物である。

 まずその思想の無さというか、単純さというか、ファロセントリズムというか、まったく共感できない。失言はあまたあって引用には困らないが、最近の時事ネタとの関連で言えば、彼が会長を務める
戸塚ヨットスクールを支える会のHPに載っている挨拶がある。

「味覚の世界に「塩」というものがなかったなら、料理が味気なくなってしまうように、自己の深化を志向するある種のストイシズムを欠いた人生に人間の本当の喜びはないでしよう。」

 まぁ「味覚」の世界に「塩」があったら、不思議なことだとしか言いようがないのだが、そうした茶々は止めにしよう。尤も、個々の事実に即して語ることはしないで、このように一般的・抽象的な話をしたがるのが石原氏の特徴である。具体的に魚の塩焼きでも例に挙げればよいのだが、こうした一般的な言い方をすると、当然塩を使わない文化に対して言外に否定的なニュアンスを漂わせてしまう。

 ともあれストイシズムは誰かに強制されてやるものではないだろう。元来のストア派が石原氏とはまったく思想的な方向性を異にするということを指摘しないでもよいかもしれないが、このようなカタカナ語を使うよりも、(年齢に関わらず)子供には「しごき」が必要なのだと単刀直入に言った方が誠実である。

「これ〔=ある種のストイシズム〕こそが今の教育に欠けているものです。そして、戸塚ヨットスクールが教えてれたものは、この「精神の塩」の価値にほからない〔原文ママ〕のだと思います。」

 戸塚ヨットスクールの実態がどのようなものであるのか詳しくは知らない。けれども、今の教育システムから零れ落ちた子供達の受け皿となり、またそうした子供達をもてあましている親達の需要にこたえる形であのような形態のものが存続し続けている(と、最近誰かが書いていたような....)。

 つまりは戸塚ヨットスクールの存続は現在の教育が誤っているからであり、教育の在り方そのものを見直さなければいけないのだが、それは子供に恭順を教え込むような石原都知事の方向性ではないだろう。。。

さて仕事。