Vegetarian

昨晩は少し時間がとれそうだったので、先日勝沼で買ってきた白ワイン「グレイス 甲州・鳥居平畑」を開ける。甲州種100%ですっきりした飲み味が和風の食材によく合う白ワイン。

甲州種はしっかりしたワインを作るにはあまり向いていないというフランス人の書いた記事を読んだことがある。確かに他の葡萄の品種と比べて、やや重さというか、強さが足りなくて、葡萄のお酒という感がないでもない。

けれども、すっきりとした味わいの中に凛としてある慎ましやかな葡萄の香りはそうした弱さをいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。作り手が誠実に懸命に育てたという雰囲気が伝わってくるのも、このワインの素晴らしいところ。

話は変わり、以前K氏からしっかりと書かれたよい本と教えていただきながら、読んでいなかった蒲原聖可『ベジタリアンの医学』を昨晩ぱらぱらとめくっていると、ちょっと驚きの記述に出会う。

ベジタリアンという語は『ヴェジタブル(vegetable=野菜)の語尾が変化したものではありません。
 
 『ベジタリアン』は、1847年にはじめて用いられた造語です。イギリスのケントで行われた『イギリスベジタリアン協会』の発足式の会場で発表されました。

 『ベジタリアン』は、ラテン語で『完全な、健全な、生き生きした、活発な』を意味する『ヴェゲトゥス(vegetus)』に由来します。したがって、『ベジタリアン』は『野菜人』ではなく、『菜食主義者』という訳語も適切とはいえないでしょう」(16〜17頁)。

 『OED』などで調べてみないといけないけれども、これは面白いと思う。今まですっかりベジタリアンというのは野菜を食べる人のことだと思っていたが、著者に言わせるとそれは誤解だという。

 「ベジタリアンは、『肉類を食べない』人です。『野菜しか食べない』人ではありません」(192頁)

 明治期に様々な欧語が翻訳された際、vegetusから派生した言葉を「vegetable」から派生した言葉と勘違いしてしまったことがベジタリアンを「菜食主義者」と訳して理解したことの原因ではないかと著者は推測しているが、『ビジテリアン大祭』という作品を書いている宮沢賢治は「ビジテリアン」とカタカナ語で表記していると言う(この点は宮沢賢治を研究している友人に尋ねてみよう)。

 ベジタリアン食が本当に健康によいのか、十分な栄養はとれるのかという疑問については、「適切に準備されたベジタリアン食は、健康に有益であり、必要な栄養素を満たしており、いくつかの疾患の予防や治療にも利点がある(アメリカ栄養士会、2003)とされてい」るようで、それは主に「ラクトオボ・ベジタリアン」という乳製品や卵を摂るベジタリアンの場合のようである。

 一般にベジタリアン食が好まれる理由は、自らの健康の維持・増進、環境・エコロジーへの配慮、動物に対する不適切な扱いへの反対、宗教的理由などがある。

 とくに環境への配慮。世界の食糧事情からしても、食肉の生産のためには穀物が無駄に必要であるから、肉類の摂取はあまり多くない方がよい。また功利主義的には動物に加えられる無用な苦痛の問題もあるから、大規模工場で生産される食肉はこれから徐々に減らしていく必要があるだろう。日常の食生活を見直してみる必要を感じる。

民主党の「日本国教育基本法案要綱」を読んでみたが、どうもいけない。イデオロギー的にどうのというわけではなく、どうも語っている言葉に真実味がないのである。

すべての文章に逐一コメントを入れたくなるほどだが、例えば「我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、また、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成することである。」という文章は、どうも自民党っぽい文言だ(同じ穴のムジナに近いことは言うまでもないが)。

それに後半部分の「また」以降は意味がよくつかめない。前文だから本文全体に関わる抽象的な話をしておけばよいのにしても、それぞれの概念がともすれば対立・緊張の関係にあることがなおざりにされている。

或いは、耳に入りやすい流行の言葉を散りばめているだけのようにしか見えないし、何か一貫した思想というものが皆無であるという点に救われなさがある。また他者理解がいかに困難であるかということに対する鈍感さも気になるが、酔っ払った状態なので以上はまったくの戯言に過ぎないかもしれない.....。