ファシズム

昨今、教育政策をなんとかしなければいけないということはそのほかの論点は様々であれ、多くの論者に共通している。さて東京都の教育委員会では国旗国歌の強制に始まり、最近は職員会議での挙手や採決を行なってはならないというお達しを出しているが、その意味するところを理解しているのだろうか。

職員会議の位置づけは意思決定権を認めないなどいろいろあるようだが、教育委員会の通知に忠実に従う/わせる校長による学校教育を徹底しようとしている点で、議会に対して強権的な権力を発動するファシズムと同じ穴のなんとかではないだろうか。

おそらく教育委員会の人々(もちろんまともな人もいるはずだが)は民主主義的な原則とあまりにもかけ離れた管理主義的な傾向を押し付けているということには無自覚なのだろう。

ナチズムや日本のファシズムがそうであったように、規則や上からの命令に対して機械的に反応することは良心の咎めをなんらもたらさない。

しかしいつぞやの映画での台詞ではないが、教育の現場にいるのは教職員であって、校長ではないし、ましてや教育委員会の人々ではない。であるならば、何が現在の教育に求められているのかを一番よく知りえているのは現場の人々だろう。

もちろん第3者的な立場が有意味な場合もあるので、現場主義一本槍で事にあたる必要はない。だが紋切り型の論理や言葉を使った浅薄なイデオロギーを振りかざす第3者は無意味だし、有害である。

しかも東京都のトップは石原都知事である。田川氏が日本ではちょっと売れた小説家が世の中のあらゆることに頓珍漢なことを物知り顔で発言するようになる悪しき「伝統」があると指摘していたが、彼もそのパターンであろう。彼の言葉には省察に支えられた重みはなく、飲み屋談義を、家父長的権力を丸出しにして語っているに過ぎない。

さらに末期的なのはこうした無茶苦茶なやり方に反対の意思をわずかでも示しただけで、職務事故として減給や停職処分にされてしまうという事態だ。

ここには教職員は適当に扱ってもよいのだという考えが潜んでいる。適当にあしらっても大人数での反対運動になるわけもないと高をくくっていられるわけである。これは東京都の問題だけではなくて、小泉政権の問題でもある。

医療、教育、福祉など、様々な分野での改悪で国民の生活費を高くしても、所詮国民の反対などというものは起きないと軽く見ているわけである。徹夜の審議なるものの実質が単なるポーズであるように、「頑張っています」「抵抗勢力を断固粉砕します」というポーズをとっていれば、マスコミもそれを持ち上げてくれて、国民の支持が得られると思っているわけである。

こうした人を馬鹿にしたことが堂々とまかり通るのはいったい何故か。単に自由からの逃走だとか、消費社会だからとか、生活に汲々とせざるを得ない状況だからとか、左翼運動の失敗だとか、妙な自己責任論の蔓延とかということではどうも説明できていないように思われる。。。