言葉の力

共謀罪が審議入りしている。提出時の名前は「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」である。

Wikipediaにも賛同派、批判派の見解がいろいろ出ているが、一番の問題は「実行行為(構成要件を実現する現実的危険性をもつ行為)概念を中心とした従来の刑法学の体系との整合性が問題となる」と指摘されている点にある。

批判派は「法益侵害(構成要件の実現)の現実的危険性を引き起こしたから処罰される」点に問題を認め、賛同派は「実行された場合の被害が多大であることから、実行に至る前に検挙・処罰する必要」があると説く。

つまり批判派は共謀罪の法案が施行された場合に処罰の対象となり得る人々のリスクを考慮しているのに対して、賛同派は共謀罪の対象になるような組織的な犯罪が実行されてしまった場合に被害をこうむる人々のリスクを考慮している。

ただ国旗国歌法案のように強制はしませんという形で成立したものが東京都で見られるように強制の形をとり得るように、組織的犯罪や共謀という概念は時の運用者によって相当恣意的に決められてしまう恐れがある。

よく引かれる例では、居酒屋で上司の文句をいい、「一度ぶん殴ってやりたい」「本当だ」と意気投合したということを「傷害の共謀罪」とされたり、健康のために合成着色料や化学調味料のお菓子や飲み物などの買わないようにしようと相談したら「組織的威力業務妨害共謀罪」とされたりすることはあり得る話ではある。

また共謀罪は密告制度とワンセットになっているものだから、人々は今まで以上に自らの言葉で語らなくなってしまうのではないか。旧東ドイツの秘密警察が残した資料は確か地球を何周もするくらいの量にのぼったと聞くが、絶えず誰かに聞かれることを恐れたり、自分の意見を自由に話すことができないというのは非常に萎縮した社会だ。

そのような社会では思想はより危険なものと見做されるようになり、人々の話す言葉から力や生命が失われてしまい、欺瞞的になる。。。ただでさえ権威に弱い傾向をもつ日本社会の場合に、アイヒマン実験に明らかなように、共謀罪の是非そのものが問われずに、単なる相談事が共謀罪とされ、それを理由にした思想的な抑圧がなされることが「当たり前のこと」として通用してしまうことも十分にあり得る。

旧東ドイツの資料で明らかになったことは、親や子供が密告する社会であったように(それゆえに人々は自由(freiheit)を求めたわけで)、そうした社会が到来しないようにする必要がある。

もちろん共謀罪の法案が可決され、施行されてしまった場合に、『1984年』のような社会がただちに招来するとは思わないが、権力は腐敗するものであるから、そうした用心は必要だろう(たった60年ほど前の日本は実際そのような社会だったわけで)。

さて講義の準備を。。。