フルトヴェングラー

ケネーの『経済表』を読むのは実は初めてで、昨晩から読み始める。血液循環のハーヴェイの議論を経て、ケネーの経済表では経済社会をある種人間の身体に見立てて分析し、再生産の秩序を明らかにしようとする。こうした点で、身体と社会とをつなぐレトリックは17世紀から19世紀に至る思想史においてどのような意味を担ったのか、ベンサムの社会の把握とも重なって興味あるところだ。

さて久しぶりにフルトヴェングラーが1951年にウィーンフィルと残した録音を聴く。チャイコフスキー交響曲第4番。

なんというか、恐ろしいほど曲の流れが自然で、ぐいぐいと引き込まれる。この指揮者の本領が見事に発揮されている演奏。昨今の「爆演」(これはこれで嫌いではないが、耳が少々辛い)といったものとはおよそ縁遠いもので、抑制されつつ、しかも情念が蠢いているかのような演奏。。。

チャイコフスキーに形式という形容が相応しいかどうか分からないが)形式における爆発というのだろうか、徹頭徹尾作品に沈滞して練られながら、その演奏に作為性は感じられない。ひたすら自然に、作曲者がこめたであろう情念が表出され、音が流れていく。

どんなローテンポでも、見事に聴かせてしまうこの指揮者は本当に何者だろうかと考えさせられる。真正の「カリスマ」というのだろうか。。。

かつて丸山眞男フルトヴェングラーが亡くなったとの知らせを療養中の病院で知ったとき、凄まじい衝撃を受け、戦後数年経ったドイツでフルトヴェンウラーが復帰した際、聴衆が歓喜して迎え入れたということが少し理解できるような気がする。

ただ古いものがよいとは思わないけれども、彼の演奏はやはり一味違う。