メモ

現代思想』に掲載されている子安氏の論考で、靖国訴訟に関する高松高裁の判決の内容を知る(いや、判決が出た際に概要は知っていたが)。首相が靖国参拝という政治的意味合いをもつ行為を神社参拝一般の行為へと問題をずらし、一個人の「心」の問題に解消しようとする「凄まじい」権力の論理を問題にしつつ、靖国神社が宗教施設ではないとして戦前に権力と一体化したのに対して、現在は積極的に宗教施設として喧伝しようとしていることの問題など。

気になったのは靖国訴訟に関する高松高裁での判決文の内容。小泉首相靖国参拝は国民(原告)の信教の自由を侵害したり不利益を与えるものではないとした点で、これは政治権力を握った者が憲法に謳われていること(政教分離)が何であれ、人々の権利侵害や不利益にならなければ、ないがしろにしてよいということを認め、小泉首相靖国参拝を司法が積極的に後押しすることになると子安氏は言う。

さて功利主義的にはどう考えるべきだろうか。ベンサムならば、まず政教分離規定のところにその規定の存在理由を明記するだろうけれども、個別の案件で利益の侵害があったかどうかを規準にして判決を下すような構成にはしない気がするが、ネックになるのは「利益」の侵害の判定如何だろう。政治権力を保持する者が特定の宗教を利することによって、さまざまな不利益が社会的に生じてきたという歴史的理由から宗教への政治の関わりの禁止ということではある。

或いは、そもそも世俗の制度である国家は世俗外の領域の宗教とは関わる必要はないし、関わるべきでないとも言えるが、現状ではすぐに不利益を生み出さないにしても、将来的に大きな不利益を生み出す可能性を重視して禁止と考えることもできる。将来的な不利益については、子ミルが言うような社会における多様な意見の封殺や個性の没却ということになるかもしれない。

また政治権力に関わる者が人々の信教の自由を侵害していないからと言って、政教分離に反することを認めることはできないのは、それが信教の自由というものを矮小化しているからだと批判することもできそうだ。。。