歴史とは何か

眠ろうと思ったが、枕元に置いておいた野家氏の歴史の物語り論などを読んでいると眠れなくなってしまい、起き出してくる。来週からの講義用にE.H.カー『歴史とは何か』を再読したが、汲めども尽きぬ泉のような豊穣な内容はさすが古典だ。

カーは歴史家と歴史上の事実との関係をまず「歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論」と「歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論」との「不安定な状態」にあるとする。

とりわけ後者の考え(歴史の重心を現在に見る立場)をコリングウッドの考えとして3点に纏めている。第1は歴史上の事実は純粋な形では与えられず、記録者の心を通してのみ与えられるということ。第2に研究対象の人々の行為の背後にある思想を想像的に理解する必要性。第3に現在の眼を通してでなければわれわれは過去を認識も理解もできないということ。

こうした「コリングウッド史観」が孕む問題についてカーは次の点を指摘する。第1に「歴史記述における歴史家の役割の強調」を突き詰めると、「歴史は歴史家が作るものだという」懐疑主義に陥ること。第2に歴史記述をする際の解釈の規準は現在の何らかの目的に適合的である限りにおいてということになり、「歴史上の事実は無で、解釈が一切だ」ということになってしまうこと。

カエサルルビコン川を渡ったことが歴史的事実とされ、他の圧倒的多数の人々がルビコン川を渡ったことは何の重要性も付されないという点では歴史解釈の問題は歴史記述において重要な指標となっているが、それの抱える問題点を考え合わせると、仮説(解釈)と様々な事実とをすり合わせて行くことで歴史記述がなされていく方法こそが重要なのだと言う。カーは最後に「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」と纏める。

経済学史を講義するのに最初は方法論的な話から始めた方がよいだろうから、歴史学の最良のテクストを使って、その後に少々ややこしい思想史方法論を簡単に触れるのがよいかもしれない、などと考えたり。。。(そういえば、渓内謙『現代史を学ぶ』もよいかもしれない)。