君が代神経症・教育・公共心

東京新聞「教員むしばむ『君が代神経症』」という記事を載せている。2003年の10.23通達により、都立校教職員は君が代斉唱参加の義務が負わされ、さらに生徒が不起立・不斉唱の場合にも責任を負わされることになり、停職、減俸、講習会受講や、職務事故を理由にした契約更新の拒否といった事例が何百と出て、400人ほどの教職員が原告になって訴訟も起きている。

尤も東京新聞の記事で言われている「君が代拒否症」のサンプルが7人だけという点は気にかかるが、「東京都の公立校教職員で精神性疾患による休職者は

2003年度 259人(病気休職全体は433人)
2004年度 277人(同464人)

約5万8千人の在職者全体に占める割合は〇四年度が0・48%(全国平均0・39%)だ。さまざまな教育改革に追われ、肉体・精神的な多忙から全国的に増加傾向を示すが、都は全国平均を上回っている」らしいから大きな問題だ。

儀式で起立している者がいたりいなかったりするのは「美的」な観点からして好ましくない。他方で「だから」皆一緒になって祝おうという過剰同調的なものも好ましくない。

そもそも高校や中学の段階で、国家への忠誠を誓わせるような「踏み絵」をすること自体に意味があるとは思えない。公的な事柄に関心をもつ人間を育てるべきだとか、道徳心を育成しないといけないというのであれば、こうしたやり方は一方的に道徳を押し付ける行為への反感が先に立ってしまい本末転倒になるだけだろう。

20年ほど前から教育現場で流行っている「ゆとり教育」というのであれば、ものの考え方や道徳的な問題に対する姿勢を「教え込む」という態度で生徒に関わるのは止めた方がよい。そうした事柄は生徒に「学びとってもらう」問題だからで、そう考えれば、生徒でいる間に急いで道徳心を身に着けてもらう必要はない。数十年後に、ああ、そういえば昔こんなことを聞いたけれども、それはこういうことだったかと得心いってもらえればよいのではないだろうか。

それでもひたすら恭順の態度を欲するのあれば、まずは宣長の思想を実践してはどうだろうか。悪人が栄え善人が苦しむ世の中に「理」はないとした加茂真淵を受けて、宣長は「直く清かりし心も行ひも、みな醜悪くまがりゆきて」いることを知りながら、「其時々の公の御定を守り、世間の風儀に従ひ候が、即神道」として「真心」を称揚した(弟子たちはしかしそれについていけず、或る者は理を語り、或る者は雅人と化したそうだ)。渡辺浩『東アジアの王権と思想』所収のエッセイからの孫引きだが、三島由紀夫に関する小文の末尾は先日のラウンドテーブルの件ともあわせて考えるとまた面白い。

「倫理的であって偽善的でないのは難しい。政治社会は往々醜悪で、あまりに卑俗である。理論の多くは空論で、「全ての理論は灰色」かもしれない。社会構成に欠かせない何らかの「理」それ自体を美的に嫌悪する精神の土壌は常に存在する(日本には特に存在する)。しかしどうやらこの嫌悪は、人を魅惑して、ついには暴力的な破局へと誘いこんでいく傾向があるらしい。
 勿論、『鏡子の家』の作者の異常な最期は、それを自演した一例であろう」(189頁)。

ともあれ、費用対効果とか、穴埋め式の解答方式だとかの悪しき影響で、教育現場でも教育の効果を非常に短期に見積もることが流行っているようだ。しかしせっかく公立の学校なのだから、そうした市場圧力に対して、もう少し距離をとったらいかがだろうか。

また関連して日本で「公(おおやけ)」という言葉はもっぱら上下関係のイメージで権力を意味するものとして使われてきた。中国のように人々を意味するような水平関係のイメージでは理解されてはいない(今現在の中国でそうかと言えば微妙だが、会社が「公司」と呼ばれていることは象徴的かもしれない)。英語やドイツ語でも、公を意味するパブリックは人々一般(理性的なイメージが濃厚だが)をも意味するから、公共心という問題を論じる場合、国家への献身ということはストレートには出てこない(この辺りのことは成瀬治氏がいろいろお書きになっていた)。その点で、国家に回収された「公」を人々の側に取り返すことが今後の日本の民主主義においても重要な課題になるだろう(人民を!と連呼しそうな勢いだが、そこは冷静になるべきだろう)。

家族や地域社会が崩壊し!?、残る拠り所は国家だけだからこそ、国歌を斉唱する意味があるのだという言説には、肝心な認識が抜けている。現代のようにコンビニ文化が日常に浸透している社会状況でかつての家族や地域社会を求めるのは時代錯誤であるという点だ。もちろんコンビニ文化を正当化するつもりはないし、かと言って様々な弊害の根源をそこに見るわけではないが。

あ、もうお昼過ぎになってしまった。。。