スウェットショップ。。。

昨晩の勉強会で正戦論の後に前半部を検討したI.Youngの
RESPONSIBILITY AND GLOBAL JUSTICE: A SOCIAL CONNECTION MODELでも議論になっていたが、スウェットショップのような過酷な環境下の(児童)労働生産物に対して、不買の意思を表示することは重要なことだ。問題は上の「社会的結びつきのモデル」のように、そうしたある種の「不正義」に対して、われわれが責任を有しているかどうか、そしてそうした不正義を匡正していく手立てにはどのようなものがあるかを考えていく必要がある。

先日の渡仏でもノートPCを活用した。3年ほど前に購入したパナソニック製品である。パナソニックのPCがあれほどタフさを強調するのには、最前線にいる兵士らにパナソニック製のPCが使われているからである。そうしたPC技術が米軍に活用されていることは周知の事柄だが、現在のアメリカの世界戦略に反対の意思をもつ者として、やはりここはパナソニック製のPCを使うことをやめるべきかどうか少々悩む。

現在の資力では新たにPCを購入する余裕がないため、パナソニック製のPCを使い続けざるを得ないという点で免責されるようにも思われるが、主観的には若干居心地が悪い。

さらにこの問題は国内産の高い製品・生産物よりも、海外からの廉価な製品・生産物を買わざるを得ない人々が抱えることでもある。どれだけ安全で栄養価が高くとも国内産の野菜を買えるお金がない家計では危険な外国産の野菜を買わざるを得ない(もちろん国内は安全で海外は危険だという二項対立的捉え方は正しくない。悲しいことながら、国内でも危険な生産物はたくさんある。。。)。

廉価な外国産の服飾品を買わざるを得ない国内の人々は、海外での過酷な労働環境にいる人々の搾取の構造を容認していることになると言われたら、それは確かにそうなのだが、しかし問題を単純化してしまっているだろう。或る社会の支配的なシステム(政治的にも経済的にも)に最も従属させられてしまうのは貧しい家計の人々だという命題はここでも妥当する。一方、それとは異なって商業主義に翻弄された消費者が国際的な不正義の構造に加担しているとして批判されるのはやむをえないだろう。。。が、こうした現象を適切に説明する論理をちゃんと考えないといけないところだ。