横浜市制、『帝国論』

東京新聞で横浜の中田市制についてコメントしている。市の借金を減らし、ゴミ焼却場の幾つかを閉鎖し、保育所を増設し、私(民)営化(privatization)を推進して、公務員の数や給与を減らした一方で、病院や保育所の私営化による環境激変、高齢者や障害者、生活保護世帯への支援の一部打ち切り、病院や幼稚園などへの上下水道料金の減免の減少などが挙げられている。

確かに思い切りの良さ、しがらみがないことで様々な分野で変革することができた点は認めたい。また多くの無駄な出費を抑えたことも認めたい。しかし大学の独立行政法人化において垣間見えた医学部への優遇などをはじめとして、当初からどこかおかしい雰囲気があった。

日産のゴーン氏が採算の悪い部門を切り捨てて日産の再生を果たしたように、横浜市制も「国に先んじて目標の〜%を達成」といった数字に惑わされて「改革」の道を突き進んでいるように見える。確かに名は残るだろうが、それが先行しては本末転倒ではないか。

3月の市長選に中田市長は出馬の意向らしい。今回は「4年前は“敵”だった自民、民主、公明の各党は市長選でも支持する構えだ」そうだ。。。こうした状況にどうも暗鬱とした気分になってしまう。

ところで先日某濱大のWorkshopに行った際、本を買い込んだ。未だにちゃんと読んでいない『オリエンタリズム』上下などを含めて、最近読んでおきたい本をぱらぱらとめくると、その中に面白い本があった。

山下範久編『帝国論』(講談社)である。「はじめに」において、著者達の間での帝国についての共通認識が3つ挙げられている。第1は「帝国概念のイデオロギー的還元からの脱却」:民族自決原則による帝国の非正統化、帝国をラベリングすることで当の政治的主体の正統性の否定すること。

第2に「帝国的なるもの(および反帝国的なるもの)を、特定の政治的・社会的実体へ投影することからの回避」、第3に「個々の政治的実体の属性としてではなく、いわば、ひとつの場として働く言説的権力という視角で帝国をとらえるアプローチ」である。

実体に対して関係を重視し、言説が作用する場を問題にする「ポストモダン」的な発想を下敷きにしていて、その点はそれほど新鮮味はないけれども、議論が綺麗にまとめられていて、所収の論文はどれもなかなか面白い。

シュミットの『大地のノモス』をアメリカ帝国論として読み直す重田さんの論文では、二次大戦後、東京とニュルンベルグで開かれた2つの国際軍事裁判で「平和への罪」が裁かれたことによって正戦論と、戦争そのものを犯罪とし侵略戦争を問題にする議論とが同居することになったという。さらにブッシュドクトリンに象徴されるような軍事覇権国家アメリカということに目を奪われると、テロリズムからの防衛を口実に監視カメラによる日常監視、「保護」を理由にした個人情報管理といった国家横断的に進行しつつあるセキュリティーの<帝国>への危機感が失われてしまうと言う。

シュミットの問題性も適切に指摘されているが、やはりシュミットは面白いと改めて思った次第。