ヴィンテージ、古酒。。。

『比較ワイン文化考』からのメモ。

「古い」という言葉には時代遅れ=陳腐という意味と、年月をかけた=貴重という二重の意味があるとして、「古酒」にもこの相反する意味がその場に応じて使い分けられてきたと言う。しかし「飲み手にとって本当に必要なのは古いということではない。飲み頃であることだ」。

穀物系の酒類の場合、作られてから何年経ったかという経過期間に関心が寄せられる。室町・鎌倉期の日本酒では、古酒、三年酒、九年酒などという呼び方があったらしい。

ワインは経過期間ではなく、いつの収穫かに関心があるので、飲み頃は起点の「ヴィンテージ」によって決まる。概して日照時間と積算温度の不足したワインは飲み頃が早く来て、過ぎ去るのも早いのに対して、逆の天候の場合には飲み頃は緩やかな円熟に向かい、その到達するレヴェルは高く、またそれが持続するのだと言う。

またヴィンテージとはブドウの当たり年を意味し、その年のワインは他の年と比べて優れているという巷説がある。つい最近までそれを鵜呑みにしていたが、どうやら違うらしい。巷説はおそらく様々なワインをブレンドするポートやシャンパーニュの影響だろうと言う。つまり気象条件に恵まれた年の良質のワインだけを用いて作られた「ヴィンテージ」のシャンパーニュやポートから、ヴィンテージというと当たり年という意味であるという巷説が生まれたのではないかと言う。

またボルドーブルゴーニュ、ラインなどブドウ栽培の北限に分布しているところではヴィンテージはやかましく言われるが、バレンシアピエモンテトスカーナシチリアなどの温暖で十分な日照に恵まれた地方では「ヴィンテージをやかましく言うワインはない」。

著者の麻井氏は1981年のこの著書の中で、日本人がもっている飲み頃を考えない古酒礼賛、ヴィンテージ盲信、セミヨン信仰などを、「情報の片寄りや不足から起きた『イメージのひとり歩き』であると言う。

麻井氏はここで丸山の『日本の思想』からよく知られている部分を引用する。

「。。。ある対象について多くの人々が抱くイメージが共通してきますと、(中略)その化け物の方が本物よりもリアリティーをもってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実を作り出して行く――イリュージョンの方が、現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。

ワインというごく狭隘で世俗的な話題の中へ、思想のあり方という広い場の論述を援用するのは、風俗・文化に現われた事象を解くにもまた社会科学的な視座が明快な展望を示してくれるからである」(155頁)

現在、このような示唆を与えるものを社会科学的認識が提供できているかと言えば、相当にあやしい話のように思われる。自らの研究が何がしかこうした社会に対する展望を見通すための視座を提供できるよう志さねばならないと感じた一文だった。

ところで鎌倉・室町期には日本酒の古酒は随分と評価が高かったらしい。また「清酒=スミサケ」に対する「コサケ=粉酒」といった濁り酒や甘酒の類をも意味する場合もあり、さらに寒造りが一般化した後では、土用を越えると「古酒」、年を越すと「大古酒」とも言ったらしい。。。日本酒も奥が深い。

Tさんから頂戴した西谷尚道氏の論考にある「名酒の定義」を見ると、明治・大正では「淡雪の消え失せるが如き爽やかな後味であること」といった文言や、昭和における「水の如き喉こし」など、明治以来(或いは江戸より)名酒にはすっきりとした味わいが求められているようだ。

ただこれは巷間の日本酒の多くがそうではないという事情だったからかもしれない。現代においても、その言葉の正しい意味での水の如き清酒にはなかなか出会えないものである。

そういえば、『比較ワイン文化考』は「ワインは水のようなものである」と言われる場合にかの地でイメージされていることは一体なんなのかということを追求した本でもあった。。。