ていたらく

建築士や事務所の不祥事が世間を賑わせている。専門家が専門の領分での責任を十分果たさないことは、もちろんいつの時代でもあったが、似たような話を身近なところで聞いた。

某日新聞主催の某日本伝統工芸展での審査に関わった方の話。焼き締めを審査していた審査委員の方々、自然釉を触り、ひそひそとご相談。

「これはどんな薬をかけているのでしょうね」

これを聞いた件の方。来年から審査のお手伝いをやめようと決意されて、実際やめられてしまった。理由はもちろん審査があまりにひどいレベルに下がってしまったからだ。

審査委員をされている方々はそれなりに高名な方々だが、おそらく焼き締めというと、ただ土を焼いただけのものと思っているのだろう。薪をくべた穴窯から生まれる松やナラの木の灰の美しい景色があるとは思いもつかないのかもしれない。

審査委員でもある某屋先生は、作品を差し上げないとよく書いてはくれないらしい。この事の真偽は定かではないが、あちらこちらでよくない噂を聞くし、それはとくに70歳以上の方々からである。

芸術一般が商業主義に汚染されている昨今。焼き物の世界もその例外ではない。お金さえ出せば(袖の下があれば)、よいように書いてくれるということの結果が、悲しいながら今のクラシック音楽の現状でもあるように、有名であることは、何もその眼識やレベルが確かなものであることを保障しない。しかし世間的には通用するものに化けてしまうところが怖いのである。

こうした世界では、自らの拠っている価値観が伝統と切断されているので、昔のものならば何でも有り難がるという心性に陥りやすい。音楽の世界で古楽の演奏が持てはやされるのに少々似ているところがあるが、伝統に拠りつつ、新しいものが生まれるのは基本に伝統の技があるからだ。しかし新たなものとして評価されるのは、いわゆるオブジェのような西洋美術を取り入れた作品ばかりであって、そこには何の意味もなく、単なる西洋コンプレックスでしかない。

昔タウトに桂離宮を誉められて、初めて桂離宮には価値があると悟った日本人と現代の日本人はそれほど変わってはいないようである。

そういえば、広隆寺のパンフレットだったか、国宝の半跏思惟像について、ヤスパースが誉めたことがとくとくと書かれていた(ヤスパースは大したことは言っていない!)。なぜこれが日本人でないのか。そろそろ自前の価値観から物事の実相を見るようにできないものだろうか。