保守、改革

こちらのブログで『産経新聞』の興味深い連載記事「ルート66 保守のアメリカ」のことを知った。

第8回「十代の論客が登場した ある共和党大会」に興味深い発言があた。

「保守の定義はさまざまで、一くくりにはできない。ただ、一つだけ共通項を挙げるなら、アメリカの保守とは既存の体制への挑戦であり、社会変革運動であるという点だ。若者たちを引きつける理由もそこにある」

確かに「〜主義」を定義するのは非常に難しい。ただ日本の思想風土と異なって、保守主義とは何らかの価値を掲げ、改革を志向するものだというのは18世紀以来、一つの潮流ではある。

現代社会の様々な社会的問題や社会的風潮を問題視する思想には2つの方向性がある。〓過去の伝統や価値から診断するタイプと、〓普遍的な価値に立脚して診断するタイプである。

同じ言葉を使用していても、そこに込める意味内容が異なることで思想の方向性は大きく異なる。18世紀では例えばフランス革命前夜に争われた自由の問題(商業上の自由=特権 vs そうした特権からの自由)など。

と、ここまで書いてきて、どうも読みにくいなと思ったら、漢字の数が多い。上の「現代社会の」で始まる文章などは、7〜8割は漢字だ!

ともあれ現代社会の退廃を批判して改革を主張する保守勢力の台頭は日米で共通する現象のようだ(そしてイスラム原理主義からは、薬や暴力に支配されるそうしたアメリカの退廃が西欧社会、ひいては近代化にまつわる退廃であり、イスラムの価値はその近代化の病理からイスラム社会を防衛せねばならないと考えるわけだ)。

大雑把な見方からすれば、アメリカで中絶反対、進化論教育反対を唱える福音派宗教右派(手っ取り早く言えば、キリスト教原理主義)と、日本で自民党(の派閥!?)をぶっ壊すとして登場してきた小泉首相をはじめとする森派(自己責任や自助、神(英霊)を持ち出す)は改革の旗手であり、大同小異に見えてくる。

そして、以下の引用はリベラルの価値が危殆に瀕していることを物語っている。

「中絶問題がそうだ。宗教が中絶を否定しても政治の領域では認めざるを得ない。だから、『政治は別だ』と、立場を使い分けるのが現代人の宿命だとあきらめてきた。しかし、鬱屈(うっくつ)は限界に達しつつあった。矛盾であり偽善ではないかとね…。(道徳的価値の問題を選挙の争点に持ち込んだ)共和党の戦略はそこにうまく的を当てた」

ここには様々な問題があるが、政治におけるリベラリズムは面倒だから、宗教の道徳的命令を政治にストレートに反映させればいいという単純な思考が露呈している。

この単純な思考に滑り込んでしまう誘惑がまさに日本の社会でも進行しているのかもしれない。一方で、迷惑をかけていなければ何をしようとも個人の勝手と主張する若者(本当は多くの大人がそうなのだが)の思想傾向があり、これは公的な扶助に対する不信を表明する立場であると同時に、公的扶助を切り捨てたいと願う側からすれば格好の立場でもある。

そしてもう一方の側には多様な価値・人々からなる社会を一様なものと捉え、切り捨てて行く現在進行中の小泉政権の「改悪」がある。

両者は上で述べた緊張の意識を喪失してしまっている点でコインの裏表なのではないだろうか。

さて論文論文.....。