カタカナ表記、『古典和歌解読』のススメ

カタカナ表記について考える。例えば英語のthがつく単語。以前にも書いたが、表記する場合や日本語で発音する場合、サンキューとは言うが、タンキューとは言わない(英語で発音する場合はタンキューと聞こえることはよくあるけれども)。

しかしロンドンを流れるセムズ川とは言わない。あれはテムズ川である。IBMのパソコンにThinkpadというのがあったが、ティンクパッドという人はおらず、シンクパッドだった。

昨日のブログに「パーティ」と書いてしまった。発音する場合は、明らかに「パーティー」である。しかし「パーティー」と書くとどうも余分な横棒がついているように感じられる。

ドイツ語のウムラウトなどは絶望的だが、原音表記は所詮無理な話でもある。日本語は子音に必ず母音がつくから、子音だけで終わる音は表現できないし、母音の数が少ないから、元から無理がある。

もちろん地域によって子音の発音は異なるし、ヘボン式に見られるように子音の数もそれなりにある(例えば、サ行のシは他のサ行の音とは違う)。

日本語と言えば、少し前に小松英雄さんの本を手に取ったことがある。彼は日本語史研究者の立場から刺激的な論文を書いてこられた。

徒然草抜書』の解釈も面白かったが、『古典和歌解読』は相変わらずの刺激的な文章で始まる。

「日本語史研究者の立場から見ると、高校の古文や古典文法で教えられていることには、デタラメが多すぎます」。

「『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の歌風が、それぞれ、素朴、観念的(理知的)、幽玄、であることは、たいていの読者が知っているでしょう。しかし、『古今和歌集』の和歌が専門家にほとんど読み解けていないとしたら」!「そういう対比は意味を失います」(ii頁)。

 この本では、なぜこれまでデタラメなことが通用してきたのか、どのようにすればそれを克服できるのかを軸にして議論が展開されている。

 東大の某助教授が嘆いたように、この本の内容について本格的に論評できる人がいない日本の「国語学」の状況は相当に危ないのかもしれない。。。(まさにその危ういことをこの本は指摘しているのだが)。