禁止→免罪

TUPのMMで「劣化ウラン反対運動の誤り」という文章が掲載されていた。

記事の要点は以下の通り。
「1)ジュネーブ条約や人権関連法といった既存の国際法に照らして、DU(劣化ウラン)はすでに充分違法な兵器である。つまりDUは「使用を禁止された兵器」である。

2)ICBUW(ウラン兵器禁止を求める国際連合)が主張するように、“これから”国連や国際社会などに「DUの禁止を要求する」と発言することは、すなわち「DUは現在、違法な兵器ではない」と認めることになる。

3)その結果、....「DUは違法な兵器だ」という事実に基づいた法的な手段をとることが不可能になり、これまでDUを落とされた諸国や、被害に遭った、または、それゆえに今後被害を受ける人々に対する補償問題解決の根拠を失う。

4)これまでの国際法に「DUのみを個別に禁止する法律がないから」といって、今後そうした国際条約なり国連の決議なりを求めたとしても、DUを使用し続けている(そして今後もずっと使い続けたい)米国および英国が、そうした提案を否決するのは目に見えている。」

対策として、訴えられているのは、「『DU禁止条約』などという考え方は捨てて、すっかり忘れ去りましょう! そしてみんなで一緒に『違法なウラニウム兵器を止めよう!』という運動および法的な手段(訴訟)に訴えようではありませんか!」である。

非人道的な劣化ウランの使用を禁止する運動が現実の政治の中で負荷している意味(=もたらす結果)が何なのかを鋭く指摘しているように思われる。

政治は狡猾な世界である。そこではあらゆる善意と悪意が状況によって振り回され利用される。権力への反対運動がいつの間にか当の権力を利することになっていることは往々にしてあり、不断に様々な社会的文脈を読み取る必要があるだろう。

権力の中枢にある者が自己の行為の正当化を信念や信仰といった協約不可能な!?言葉で語り出すことほど恐ろしいことはないのだが、様々なコンテクストに注意しつつ、自己の信条としては常にナザレのイエスを見習いたいものだ。

ローマやユダヤの支配層といった抑圧する側の高圧的な物言いや偏見に依拠した言説(=穢れや行ないについての細目=ルサンチマン!)に対抗して、それをまったく別の高い次元から批判し、被抑圧者へ寄り添い、抵抗を試みたイエスを。。。